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千早赤阪村 PAGE2

寄手塚と身方塚
(よせてづかとみかたづか)

はじめに

今回は寄手塚と身方塚を紹介します。寄手塚・身方塚は森屋(もりや)の西側、村自然休養村管理センター付近の森屋墓地(惣墓)にあります。古くは『河内名所図絵』に挿絵があり、江戸時代ごろの森屋惣墓の状況をうかがうことができます。ともに「塚」と呼ばれていますが、塚と石造の五輪塔を指しています。

寄手塚

寄手塚は総高182cmの大型の石造五輪塔です。現在は石組の井戸のような穴の上に建立されています。石材は金剛山・葛城山で産出する石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)を使用しています。中央部の丸い塔身(水輪)には、「金剛界の四仏」を表す梵字を薬研彫(やけんぼり)しています。薬研彫は文字をV字状に彫ることで、むかし漢方薬を粉に挽く道具「薬研」に形が似ていることからこういわれています。金剛界の四仏は前回に紹介した不本見神社層塔と同じですが、寄手塚のように梵字「ウーン」・「タラーク」(不本見神社はタラーン)「キリーク」・「アク」とするのが一般的です。造立年代は鎌倉時代後期と考えられ、大阪府文化財保護条例で有形文化財の建造物に指定されています。

身方塚

身方塚は総高137.3cmで寄手塚より、ひとまわり小さな石造五輪塔です。五輪塔の下には反花基壇を設けています。石材は黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)で、よく見ると石榴石(ざくろいし)と呼ばれる小さな赤い石が観察できます。造立時期は南北朝時代のはじめと考えられ、大阪府古文化紀念物等顕彰規則で重要美術品に指定されています。
寄手とは、鎌倉時代末に千早赤阪に攻め込んできた鎌倉軍の武士たちのことです。寄手塚は楠木正成が千早赤阪に攻め込んできた鎌倉軍の戦死者の霊を弔うため、身方塚は味方の戦死者のために建立したといわれています。建立の際、貴僧を招いて供養を行ったと伝えられています。
実際には、寄手塚・身方塚の造立年代には約25〜50年の隔たりがあり、同時に造立されたものではありません。墓全体を供養する惣供養塔(そうくようとう)として建立されたのでしょう。

五輪塔とは何か

では、なぜ五輪塔を建立したのでしょう。五輪塔の形や考えは大陸から伝来したものですが、日本に入ってきてから実際に物となって現されはじめました。下から順に、四角形の地輪(基礎)・円形の水輪(塔身)・三角形の火輪(屋蓋)・半円形の風輪(請花)・団形の空輪(宝珠)の五つの部分からできています。この形から人間の身体ともみえます。
この形は「大日如来の三昧耶形(さんまやぎょう)」といい、大日如来が人々を極楽浄土へ導く意志を表しています。五輪塔を造立することは、仏像を造るのと同じことなのです。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)



※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財2 寄手塚と身方塚」『広報ちはやあかさか』6月号 No.299 1997.6.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。






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