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千早赤阪村 PAGE4

北水分の板碑

はじめに

旧街道には、お地蔵さんや燈籠など、昔に造られたものがたくさん残っています。北水分の集落の中程には、千早街道に沿って2基の板碑(いたひ)が建立されています。板碑は墓地だけでなく、お地蔵さんなどに次いで、道の傍らでよく見かける石造物です。いったい、なんのために建立したのでしょうか。

北水分の 永禄12年(1569) 弥陀名号板碑

板碑は、板状の石造物です。手前側が永禄12年弥陀名号板碑で、総高141cmの板碑です。石材は金剛・葛城山から産出する石英閃緑岩を使用しています。
この板碑は、全体を舟の姿に彫り出しています。これを舟形光背(ふながたこうはい)といいます。これは仏像の後ろに付いている光背と同じもので輝きを表しています。仏像だけではなく、キリスト教や天使の後ろにも丸い輪があります。また、わたしたちも「人が輝いている」という表現を使ったりします。洋の東西を問わず偉いひとや才能のある人は輝いてみえるようです。
この板碑の特徴は、上の方に仏像の姿を彫り出しているところにあります。仏像は蓮華(れんげ)の花をかたどった台座の上に座っており、阿弥陀如来(弥陀)を表しています。仏像の下には六字名号「南無阿弥陀佛」が彫られています。これ以外にも左右に銘文がありますが、摩滅しているためにほとんど読めません。

神宮寺の 永禄12年(1569) 名号板碑

この板碑の後ろにも、同じ年に建立された板碑があります。上の方は折れて失われていますが、高さは107.6cmあります。石材は金剛・葛城山から産出する石英閃緑岩を使用しています。板碑の中央には同じように「南無阿弥陀佛」が彫られています。その左右の縁には「□禄十二己巳年 河州石川郡水分村/十五日 神宮寺白玄代」の文字があります。不明の一文字は「永」と考えられ、「永禄12年」に建立されたと考えられます。銘文から、いまから約430年前にすでに水分村があったことと、北水分老人憩いの家周辺にあった神宮寺と関係のある板碑であることが判ります。

板碑とは何か

板碑とは板状の石造物です。墓碑を大きくしたような形をしていますが、墓碑ではありません。なぜなら、板碑の下にはお墓がないからです。板碑には必ず経文か仏を表す梵字(種子:しゅじ)が彫られています。今まで紹介した五輪塔は梵字を書かなくても大日如来を表していますが、板碑はその形だけでは何も表しておらず、そのため経文や種子が必要なのです。だから、自然の石に経文を彫るのも板碑だともいえ、いろんな種類に使用されています。

阿弥陀信仰

南河内でよく使用されている経文は、今回の板碑と同じ「南無阿弥陀佛」です。このことばは阿弥陀如来に帰依(きえ)するという意味です。帰依とは頼りにすることで、阿弥陀如来を頼って西方浄土(極楽)に往生することを求める内容です。現在の墓碑にも「南無阿弥陀佛」や阿弥陀如来を表す梵字「キリーク」が彫られています。これも同じように阿弥陀如来に救済を求めているのです。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)



※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財4 北水分の板碑」『広報ちはやあかさか』9月号 No.302 1997.9.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。






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