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千早赤阪村 PAGE6

千早惣墓の五輪塔

はじめに

現在の千早集落は、約400年前に東阪小字(こあざ)スモモから集団移住して来た人々によって作られたといわれています。それまでに存在した集落は、南北朝時代の騒乱の後、一度途絶えたとされていました。しかし、千早墓地(惣墓)をみると、一石五輪塔や石仏など時代が途切れることなく存続しており、集落が続いて存在していたことが判ります。今回は、千早惣墓でもっとも古い五輪塔を紹介します。

毛大名(けだいみょう)

千早惣墓五輪塔は、総高189.0cmの大型の石像五輪塔です。石材は金剛・葛城山で産出する角閃石黒雲母石英閃緑岩(かくせんせきくろうんもせきえいせんりょくがん)を使用しています。五輪塔の下には反花基壇(かえりばなきだん)と延石基壇(えんせききだん)を設けています。延石基壇の中央には穴(奉籠孔:ほうろこう)が開けられています。これは遺骨や遺髪を五輪塔に納めるために開けられた穴です。五輪塔の下に納めることにより、死者が成仏することを願ったと考えられます。このことから「毛大名」と呼ばれるようになったのでしょう。墓地全体を供養する惣供養塔として建立されたことが判ります。造立時期は、鎌倉時代後期と考えられ、大阪府文化財保護条例で有形文化財の建造物に指定されています。
また、この塔は当初の位置を動いておらず、破損しているところがありません。墓地西側のもっとも高いところにあり、篤い信仰に支えられ約700年の間墓地全体を見守ってきたのでしょう。

五輪塔の変遷

では、なぜ700年前に造られたことが判るのでしょう。河南町の寛弘寺神山墓地に正和4年(1315)の紀年銘(年号)のある五輪塔があります。この塔は大きさや形態が千早惣墓五輪塔に非常によく似ているからです。寛弘寺神山墓地の五輪塔は、造立時期を決める基準となっています。
五輪塔は、平安時代後期ごろから現在に至るまで建立されてきました。しかし、すべてがこのような大型五輪塔ではなく、形も少し違います。大きな違いは基礎(地輪)の形にあります。五輪塔が造られ始めたころは、基礎は低く狭いものでした。あまりにも狭すぎて、願主名(戒名)を書く(刻む)ことができません。そこで、願主名を書きやすいように基礎を高くしました。その後は、時代を経るごとに高くなるので造立時期を決めるポイントになります。現在の五輪塔の基礎は高く、多くの願主名が刻まれていることからもよく判ります。そのほか、デザイン的に変化したところもあります。屋蓋(おくがい)や宝珠(ほうじゅ)などは、新しくなるほど先が鋭く尖ってきます。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)



※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財6 千早惣墓の五輪塔」『広報ちはやあかさか』11月号 No.304 1997.11.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。






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