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千早赤阪村 PAGE7

小吹墓地の宝篋印塔
−嵐谷徳右衛門供養塔−

はじめに

石造物にはいろいろな形(塔形9があります。そのなかでも、いちばん複雑な形をしているのが宝篋印塔(ほうきょういんとう)です。今回は、小吹墓地にある近世の宝篋印塔とその建立にいたる話を紹介します。

文化8年(1811)宝篋印塔

この塔は、高さ約122cmある大型の宝篋印塔です。石材はピンク色をした黒雲母花崗岩(くろうんもかこうがん)を使用しています。基礎にあたる銘文から、「嵐谷徳右衛門」の供養のために村中の人々によって建立されたことが判ります。
徳右衛門は18世紀後半から19世紀はじめにかけて小吹村の庄屋をしていた人物です。西恩寺の旦那惣代(だんなそうだい)もしていたため、大阪市大念仏寺にある古文書に名前を見ることができます。

3日間のハンガーストライキ

江戸時代の中ごろからは、経済の変化や飢饉にともない年貢が高くなってきます。小吹村では、17世紀中ごろには、収穫高の40%であった年貢が、18世紀中ごろにはさらに高くなったようです。当時は村単位に年貢が課されていました。不作や農民の減少で収穫が減っても、誰かが穴埋めをしなくてはなりません。そのために負担が増え、年貢を納めるだけの収穫を維持し続けていくことが困難になりました。
この状況から抜出し村を出る農民を防ぎ、村を保っていけるように活動を行ったのが嵐谷徳右衛門でした。
徳右衛門は年貢を納めることが困難になったため河南町白木にある代官所へ年貢軽減の嘆願に行きました。しかし簡単に軽減は認められませんでした。そこで、荒むしろの上に座りハンガーストライキを行う強硬な手段に訴えました。3日間のハンガーストライキの結果、24石の軽減が認められました。その後、徳右衛門が獲得した免除は既得権として受け継がれていきました。この塔は、その徳右衛門の供養のために村中の人々で建立したものなのです。

宝篋印塔とは何か

宝篋印塔とは『宝篋印陀羅尼(ほうきょういんだらに)』というお経を納めるための塔です。このお経を誦(ろう)すれば、地獄の先祖は極楽に行くことができ、病気や貧しい人も救われるといわれています。
この塔は下から基礎・塔身・屋蓋(おくがい)・相輪(そうりん)でできています。特徴は屋蓋にある飾りにあります。隅飾りといい軒の先端に馬の耳のように突き出ています。また、屋蓋を段で表しているのも特徴です。
宝篋印塔の形は、中国の呉越王(ごえつおう)の銭弘俶(せんこうしゅく)が造った84,000基の銅塔が原形と考えられています。
この塔は日本にも数点渡ってきており、近くでは河内長野市金剛寺に伝わっています。

[参考文献]
『千早赤阪村誌』本編
『西恩寺史』

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)



※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財7 小吹墓地の宝篋印塔」『広報ちはやあかさか』12月号 No.305 1997.12.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。






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