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千早赤阪村 PAGE10

川野辺の西国三十三度巡礼供養塔


はじめに

川野辺の集落のなかに、ひときわ高い塔が見られます。塔のまわりには、たくさんの名前が刻まれています。この塔はなんのために建立されたのでしょうか。今回は、たくさんの名前が刻まれた宝篋印塔(ほうきょういんとう)を紹介します。

嘉永6年(1853)宝篋印塔

総高216.4cm、石材はピンク色をした黒雲母花崗岩を使用しています。基礎には「花山院御法流順礼/奉供養西国三十三度巡拝/先達四人行者」とあります。花山院(法皇)とは、西国巡礼を復興したとされている法皇です。銘文から西国巡礼に関係する塔であることが判ります。
この塔の特徴は、刻まれた名前の多さです。87人の名前が刻まれています。この人々は塔の建立に関係したため名前が刻まれています。名前からは、千早赤阪村川野辺の住民だけではなく二河原辺の人と思われる名前もあり、富田林・河南町・太子町など本村以外に住む人々も関係していたことが判ります。

西国巡礼とはなにか

奈良時代に長谷寺を開いた徳道上人は、死んだ時に閻魔王(えんまおう)から日本国内の三十三カ所の観音霊場を巡礼すれば減罪の利益があることを知らされました。そして、巡礼を広めるようにと石の札を渡されて生返ったということが伝えられています。そして、上人は三十三カ所を設定し、巡礼を行いました。これが西国巡礼の始まりといわれています。その後、平安時代に花山法皇が夢のなかで石のお告げがあり、河内仏眼上人を導師として三十三カ所巡礼を復興しました。
これまでの巡礼は宗教者や山伏の修行の旅でしたが、室町時代末には一般民衆も巡礼を行うようになります。私たちは、巡礼について「厳しい旅」のイメージを持っていますが、江戸時代の巡礼は、途中の寺で拝観料を払い宝物を見たり、都市で芝居を見たり土産品を買ったりするなど現在の巡礼の旅と変わりありません。

観音さんと行者さん

現在では、自分で西国三十三カ所の巡礼をしますが、ほかに行者さんに供養をお願いして巡礼してもらう方法がありました。この巡礼行者を三十三度行者といい、西国三十三カ所を33回(度)巡りました。行者は、背中に「オセタ」という組立て式仏壇を背負いました。オセタのなかには三十三カ所の寺で祀られている観音菩薩に代わるミニチュアの観音菩薩などが入っています。「三十三」は、観音菩薩が33の姿に変わり仏法を説くことからきています。巡礼途中の宿(檀家:だんか)ではオセタを開け、供養や加持祈祷(かじきとう)を行いました。また、先々で供養を頼まれ写真や位牌を預かり巡礼を続けました。

満願供養

巡礼が終わると満願供養を行います。満願供養の法要のために、仮設のお堂を建てました。堂のなかには花山法皇の遺髪で作られたという「黒髪曼荼羅(くろかみまんだら)」が掛けられ、本尊として扱われたようです。ある満願供養では2夜3日間、6回の食事(施餓鬼:せがき)が行われました。約1,000人の参加があったようです。金額にして170両に達する、莫大な費用を要したものもありました。
盛大な満願供養は行われなくなりましたが、このような巡礼は昭和15年ごろまで行われていました。行者のことについて記憶のある方もおられるのではないでしょうか。

[参考文献]小嶋博巳編『西国巡礼三十三度行者の研究』
井上・田中『西国三十三カ所巡礼』新潮社


(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財10 川野辺の西国三十三度巡礼供養塔」『広報ちはやあかさか』4月号 No.309 1998.4.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。





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