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千早赤阪村 PAGE12

二河原辺常楽寺の三十三度巡礼供養塔


はじめに

二河原辺の集落の中程に融通念仏宗常楽寺があります。このお堂は、現在は二河原辺集会所としても使用されています。お堂の中には、鎌倉初期の阿弥陀如来坐像や室町時代の薬師如来坐像などが祀られています。お堂の前には、背の高い塔が建立されています。この塔には多くの文字が刻まれており、多くの情報が秘められています。今回は、二河原辺常楽寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を通して、どのようにして塔が造られたかを考えたいと思います。

享和3年(1803)宝篋印塔

この塔は299.0cmの大型の宝篋印塔です。石材は、大阪府泉南郡岬町から箱作付近で産出する和泉砂岩を使用しています。基礎には「後白河法皇御背板(おせた)伝来/奉納西国三十三度供養塔/妙法院宮御内称名寺行者・・」とあります。また、基壇にも多く名前が刻まれています。銘文から4月号で紹介した川野辺にある西国三十三度巡礼の満願供養塔と同じように、「オセタ」を背負った行者が西国三十三カ所の観音霊場を33回巡礼したことを記念して建てた塔であることが分かります。
しかし、川野辺の塔は太子町にある葉室組の行者に巡礼を委託したのに対し、ここでは京都市称名寺にある大仏組の行者に巡礼を委託しています。そのため、「花山法皇」が「後白河法皇」に変わっています。

だれがお金を出したか

この塔には、多くの名前が刻まれています。名前のある人は、なんらかの形でこの供養に参加した人です。名前のある人は、なんらかの形でこの供養に参加した人です。願主・施主・世話人・細工人(石工)に分けることができます。願主はこの供養を行った巡礼行者のことです。施主とは供養を施した人です。この人たちが供養を求め、費用を負担しました。そうすることで、功徳を得ることができたのです。
なかでも、石(材料)施主と細工(加工)施主を、村外の人が分けて負担していることが注目されます。石施主は和泉砂岩の産出する泉州淡輪村(たんのわむら)の人であることから、石材そのものを提供したのではないかと思われます。

石工 大和屋庄兵衛

「細工人大和屋庄兵衛」は、堺の大小路に住む石工です。庄兵衛は、18世紀終わりから19世紀はじめにかけて活躍しています。この宝篋印塔のほかに7点の作品が確認されています。作品には狛犬が多く見られ、狛犬を得意としていたと思われます。
また、石材と石工の関係から近世の石工は石材の産出地だけではなく、都市に運んで加工していたことが分かります。当時、石屋は堺だけではなく大坂にもたくさんあり、古典落語のなかでは大坂の名物として船・橋・お城に並んで石屋があげられています。 塔に刻まれた銘文から、多くの情報を得ることができました。このようにいろいろなことが分かることは、たいへん珍しいといえます。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財15 二河原辺常楽寺の三十三度巡礼供養塔」『広報ちはやあかさか』11月号 No.316 1998.11.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。







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