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千早赤阪村 PAGE13

出合遺跡の発掘


はじめに

出合遺跡は千早赤阪村役場を中心に広がる遺跡です。保健センター建設に先立って行った発掘調査では、平安時代から南北朝期にかけての遺物が出土しました。しかし、明確な遺構は少なく、遺跡の状況をつかむことはできませんでした。
今回は、大阪府が行う防災無線設置工事に先立ち発掘調査を行い、その成果について紹介します。

火事の跡で

発掘調査では、土層を観察することが大事です。土層を観察することによって、各時代の遺構(生活)面を確認することができます。今回の調査トレンチの土層を観察すると、幾度も造成されていることが分かります。
上から田んぼの面が3面あり、畦も確認できました。地表下70cmには、焼けた土の層があります。その層の下には中世遺構面があり、ほぼ南北に走る溝を確認しました。溝の上を焼土が覆っていることから、周辺で火事があった可能性が考えられます。また、焼土の中からは鎌倉時代末から南北朝時代の土器が出土していることから、火事の時期も限定されます。
焼土の下にも分厚い堆積があります。東側に向かって落ち込んでいます。また、その下の層からも中世土器が出土しています。
これらのことから、地表下2.2mまでは、確実に中世の時代を通して堆積した土層であったことが分かります。また、土の堆積状況から静かに長い時間かけて堆積したものではなく、一度に多くの土を移動し造成したことが分かります。

出土した遺物

溝や落込みからは、多くの遺物が出土しました。遺物は瓦器(がき)・土師器(はじき)などの日常雑器が中心です。瓦器や土師器はこの周辺で作られていたと思われますが、他の地域から搬入されたものに常滑甕(とこなめかめ)や中国の龍泉窯(りゅせんよう)で作られた椀があります。
そのなかでも特徴的なものに滑石(かっせき)製の鉢があります。滑石とは「ろう石」のことです。現在ではろう石は軟らかい石のため使われませんが、むかしは軟らかく加工しやすいために、弥生時代には紡績車、中世には鉢などに使用されました。この時代には九州で作られていました。

藤林氏の館跡

中世には、水分村藤林に住んで「藤林」を名乗る武将がいたといわれています。役場周辺の字名は「藤林」ということから、ここには武将藤林氏の居館があったとされています。楠木正成に属した藤林民部大輔は、和泉国泉北郡字多大津村に移り住み元弘・建武のころに活躍しました。とくに、下赤坂城の出合屏風坂の戦いで奮闘したといわれています。今回の調査で検出された遺構は、藤林氏に関係のあるものかもしれません。
また、誕生地遺跡の中世館城も同じ時期に火事になっており、南北朝時代の戦いの状況がうかがえます。わずか10平方mの発掘ではありましたが、大きな成果がありました。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財16 出合遺跡の発掘」『広報ちはやあかさか』12月号 No.317 1998.12.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。







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