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千早赤阪村 PAGE14

国史跡 千早城跡


はじめに

『千早赤阪の文化財』では、主に石造物や発掘調査について紹介してきました。今回から、村にある3つの史跡を続けて紹介したいと思います。できるだけ新しい視点を加えて紹介します。

千剣破城(ちはやじょう)

千早城は、鎌倉勢の百日間の攻撃に耐えた名城です。元弘2年(1332)に自然の険しい地形を利用して、楠木正成が築城したといわれています。昭和9年に国から史跡に指定されました。
千早とは「強い風が吹く場所」という意味です。
古文書に登場する千早城は、千剣破城・千葉屋城・茅破屋城・茅葉屋城とも書かれています。『楠木合戦注文』では楠木爪城金剛山千早城とあります。名前はいろいろな漢字が使用されてますが、書かれた当時は読みが似ていればよかったので、いろいろな漢字が使われました。

曲輪(くるわ)

千早城跡では、現在も多くの曲輪が確認できます。曲輪とは、縄や塀などで囲まれた場所のことです。時代劇によく登場する遊郭も「くるわ」といいます。囲まれた範囲で行われていたので、城の曲輪と同じ意味です。
曲輪は本丸・二の丸・三の丸・四の丸といわれているもののほかに、茶屋ノ壇や馬かけ場などの曲輪があります。また、城の正面、府道付近に的場といわれる場所がありました。曲輪に礎石の跡や二の丸と三の丸の間に堀切跡が見られたようですが、現在は判りません。
その他に、竪堀を確認しました。ふつう、山城の堀は尾根に直交する(堀切)か斜面に平行(横堀)掘られるものです。竪堀は斜面に対して上から下に向って掘るものです。この堀の用途はあまりはっきりしていません。
この3種類の堀のうち横堀・竪堀は新しい時代に造られたので、南北朝時代以降も千早城が使用されていたことが判ります。

出土遺物

大阪府立千早山の家建設の際に発掘調査を行いましたが、遺構・遺物は確認できませんでした。しかし、四の丸の茶屋の周辺には、いくつかの切り株があります。その切り株の間からたくさんの遺物を表採しています。表採した遺物の時期は14世紀で、これより新しい遺物は確認していません。

『太平記』は本当?

千早城の当時を示す古文書には、『楠木合戦注文』、『太平記』などがあります。なかでも『楠木合戦注文』は、戦闘見聞録で信憑性の高い資料ということがいわれています。
みなさんが知っている多くの出来事は、『太平記』の記述にあります。これによると、城の曲輪から石や大木を投げ落としたり、藁(わら)人形を使った奇策を行い、鎌倉勢に抵抗したとあります。はたして、本当の出来事だったのでしょうか。
『太平記』は軍記物語で、成立時期や作者に不明な点があり、誇張が多くそのまま信じることはできません。しかし、合戦で負傷したことなどを報告する古文書(注文)のなかに、石に当たって負傷したことが記録されています。すべてが創作ではないので、注意して読む必要があります。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財17 国史跡 千早城跡」『広報ちはやあかさか』1月号 No.318 1999.1.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。







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