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千早赤阪村 PAGE15

国史跡 楠木城跡


はじめに

千早赤阪村には、国指定史跡が千早城跡・楠木城跡・赤阪城跡の3カ所あることはご存じと思います。しかし、3つある城跡のうち、『太平記』には「千早城」と「赤坂城」の名前しかでてこないことをご存じでしょうか。
今回は、楠木城跡を紹介し、これらの問題を考えます。

帯曲輪(おびぐるわ)・塹壕跡(ざんごうあと)・千畳敷

楠木城には、多くの曲輪があります。城は本丸・二の丸を頂点にして、階段状に曲輪が配置された山城です。主な曲輪は本丸・二の丸を含めて22カ所あります。堀切・横堀もたくさんあります。また、最近四の木戸周辺に竪堀を発見しました。楠木城は多くの改修を受けており、戦国時代にも使用されていたと考えられています。なかでも特徴的な遺構は、本丸の帯曲輪・横堀とそろばん橋です。
帯曲輪は、袖曲輪ともいわれています。本丸頂上にある千畳敷といわれる曲輪の下にあります。曲輪を帯のように巻くようにあるので帯曲輪といいます。この遺構は、南北朝時代と考えられています。
その帯曲輪の下にあるのが横堀です。横堀は「塹壕跡」とも呼ばれています。横堀周辺からは、瓦・瓦器・土師器が表採されています。横堀の造られた時期は、戦国時代と思われますが、表採した遺物は鎌倉時代末から南北朝時代のものです。
千畳敷には、建物と土塁のような跡が残っています。わずか10cmほどの高まりですが、注意すれば観察することができます。

そろばん橋

そろばん橋とは、どのようなものでしょう。一般的には、城内から堀外に向けて架ける、そろばんをひっくりかえしたような移動式の橋をいいます。しかし、楠木城にはそのような橋を架ける場所がありません。
楠木城のそろばん橋には、1カ所に3本の堀切があるので、ギザギザの堀に見えたはずです。その形が「そろばんの駒」のように見えたので、そろばん橋と呼んだのでしょう。

2つの赤坂城?

『太平記』に書かれている2つの赤坂城の様子は、次のようです。

「にわかにこしらえたりと覚えて、はかばかしく堀もほらず、わずかに屏一重に塗って、方一、二町には過ぎじと覚えたる、その内に、櫓二、三十が程、かきならべたり」

「この城三方は、岸高こうして屏風を立てたるがごとし。南の方をばかりこそ、平地につづいて、堀を広く深く掘り切って、岸の額に屏を塗り、その上に櫓をかきならべたれば、いかなる大力早態(はやわざ)なりとも、たやすく攻むべき様ぞなき」
とあります。この2つが同じ城であるとは思えません。
前者は赤阪城跡(下赤坂城)、後者は楠木城(上赤坂城)のことです。
では、なぜ『太平記』では、赤坂城を区別しなかったのでしょうか。発掘調査や伝承から、現在の赤阪地区には水分藤林(出合遺跡)・山の井(誕生地遺跡)・桐山(楠木邸跡)に中世館のあることが分かっています。千早赤阪へ攻め込んできた鎌倉幕府軍にとって、複数の館があるこの地域一帯を「赤坂城」であったと考えていたため、区別しなかったと考えることはできないでしょうか。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財18 国史跡 楠木城跡」『広報ちはやあかさか』2月号 No.319 1999.2.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。







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