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千早赤阪村 PAGE16

国史跡 赤阪城跡


はじめに

前回では、赤阪城が2カ所あり、その1つが楠木城跡(上赤坂城)であることを紹介しました。
今回は、もう1つの赤坂城である赤阪城跡(下赤坂城)を紹介します。

本丸はどこに ?

赤阪城は、千早城や楠木城にくらべて遺構がどのようになっているかが分かっていない城です。『太平記』には「堀のひとつも掘らず・・・・」とあるように、現在でもほんとうに堀のひとつも確認することができません。どこに、本丸があるのかは、史跡指定以前から大きな問題となっていました。
本丸と思われる場所は2カ所あり、その碑が建てられていました。1つは中学校裏の「赤坂城址」の碑で、もう1つは村役場上の「下赤坂城本丸址」の碑です。両方とも、明治20年ごろまでは荒れ地で、城の格好をしていたそうです。そのなかでも、指定前に千早城・楠木城・赤阪城を調査した林部与吉氏は、役場上の曲輪(くるわ)を本丸としています。その根拠にされているのが、『赤坂山旅枕』という古文書です。実物が確認できていませんが、この古文書に本丸の規模や建物跡・櫓台(ろうだい)の跡があった記述があります。その状況が、役場上周辺と合致するとのことです。現在では、本丸と思われる曲輪は、ほとんどが造成されています。
しかし、立地的には、城といわないまでも、利用されていてもおかしくないところです。また、甲取坂(かぶとりざか)などの伝承も残っています。曲輪には、館を建てるスペースもあり、周辺の館や城と連絡して機能していたことは十分考えられます

史跡指定へ

3回にわたって、村にある国指定史跡について紹介しました。この3つの史跡は昭和9年3月13日に官報告示され、同時に国の史跡として指定されました。当時の歴史的背景もあり、全国的に見ても南北朝時代の遺跡について順次指定を行っていたようです。指定については、土地の現状を変えることすべてについて、大きな制約がかかります。土地所有者の理解が必要です。そのため、所有者の同意を得て指定されています。

史跡保存管理計画の策定

しかし、史跡指定の後65年の歳月が経過すると、その意識が薄くなっているのはいなめない事実です。史跡地の所有者も代わり、史跡をよい状態で保存することがむずかしくなってきました。
そこで、平成7年から史跡の保存計画を策定することになり、資料調査のため文化庁に行きました。文化庁内の厚いコンクリートで守られた耐火倉庫の中に、史跡指定に関わる申請資料が残されていました。本来なら村にも同じ書類が残されてるはずですが紛失したようで、見あたりません。そこには、多くの同意書が添付されていました。当時の所有者の史跡保存への意気込みや情熱が伝わってくるようです。

(千早赤阪村教育委員会 西山昌孝)


※上記の文章は、執筆者である千早赤阪村教育委員会 西山昌孝氏のご厚意により、下記の文献より転載したものである。
「千早赤阪の文化財19 国史跡 赤阪城跡」『広報ちはやあかさか』3月号 No.320 1999.3.1

※なお、転載に際して、文字コードに存在しない漢字はカタカナ表記し、ルビは括弧内表記した。原文は縦書文であるため、必要に応じて、漢数字を算用数字に、計量単位を英数字に置換した。







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