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南河考研 大阪狭山市文化財情報

狭山池中樋遺構

狭山池には3箇所に樋が設置されていた。北堤のほぼ中央部分に、コンクリ−ト製の取水塔が大正時代に建てられたが、それ以前にはこの場所に木製の4段樋があり、近世初期から大正時代までの約300年間に何回もの補修を重ねて使用されつづけていた。最下段部分は堆積土中に埋没しているとの記述が、故末永雅雄博士の著書にあるため、発掘調査前からその存在は予想されていた。1994年度に実施した発掘調査の結果、中樋最下段部分は取水塔基礎部分からかろうじてはずれて残存しており、土中よりあらわれたその姿は、我々が予想だにしないものであった。
中心部には、ヒノキ材を箱形に組み合わせた、樋本体の最下段取水部が位置する。残存長 474cm・残存高170cm・幅147cmを測る。材と材との接合には船釘状の鉄釘が用いられている。
樋本体の東西両側には、扇子板(せんすいた)と呼ばれる集水・護岸施設が、上からみてハの字形に配置されていた。おそらく準構造船の外板部材の転用であろうと思われる、厚さ20cm〜30cm・長さ約3mの板材が4枚・4段あり、角材の杭がこれを押さえ込んでいる。
さらにその扇子板の各々延長線上には、石組みの護岸施設が配置されている。西側の石組みでは、兵庫県加古川市付近産出の凝灰岩(竜山石)を刳抜いた、古墳時代後期の家形石棺の身3個と蓋未製品1個が2段に積み上げられ、その先端に二上山産凝灰岩製刳抜式家形石棺身の破片が配置されていた。この二上山産凝灰岩の石棺内側には朱の塗布が認められた。東側の石組みでは、竜山産凝灰岩の刳抜式家形石棺身の破片4個と和泉砂岩の石碑1個が2段に積まれていた。東側石組みの石棺材のうち1個体は、底部に円孔が穿たれており、おそらく中世の石製樋管の取水部に転用されていたと考えられる。また、他のすべての石棺の小口部分が砕かれて、U字溝状に加工されていることから、石樋に転用されていたものの再転用であると思われる。
この中樋遺構の構築時期は、扇子板部材の年輪年代測定から A.D.1566年以後十数年〜数十年くらいと考えられる。中林家文書「狭山池由緒書」に慶長13年(1608年)の片桐且元の狭山池改修に関する記述がみられることから、中樋は、おそらくこの時の改修で設置されたと考えられる。




西側の石組み 東側の石組み
取水口付近 掘り起こされた石棺




重源狭山池改修石碑

中樋遺構の東側石組み護岸には、家形石棺にまじって、和泉砂岩の石碑が転用されていた。下段の石棺材に接する面には文字が刻まれていた。この碑文を読解したところ、東大寺復興などの業績で知られる鎌倉時代の僧 重源(その名は碑文中で「南無阿弥陀佛」と記されている。)が狭山池を改修した際の碑であることが判明した。
碑文には、奈良時代の僧 行基が天平3年(731年)に堤を築き樋を伏せたものの、現在は水が漏れて毀破しており、摂津・河内・和泉の三箇国の流末50余郷の人民の請願によって、重源が行年82歳の時、建仁2年(1202年)の春に修復を企て、2月7日から土を掘り始め、4月8日から石樋を伏せ始め、同24日に終功するという、改修工事の経過が記され、その間、道俗男女沙弥小児まで同地の人々が手で自ら石を引き、堤を築いたとあり、この結縁をもって一佛平等の利益を願うとの願文がある。
また、碑文の後半部分には、「大勧進造東大寺大和尚 南無阿弥陀佛」の重源を示す名が刻まれ、続いて「少勧進阿闍梨(バン)阿弥陀佛」・「浄阿弥陀佛」・「順阿弥陀佛」の同行衆である3人の僧の名が刻まれている。さらに、その後には「造東大寺大工伊勢守物部為里」・「大工守保」の工人の名も記されている。これらの人名は、東大寺南大門の金剛力士像の解体修理の際に検出された胎内経巻「一切如来心秘密全身舎利宝筐印陀羅尼経」に記された結縁交名の中に確認することができる。
碑文の詳細な読解については今後の検討を要するが、鎌倉時代の土木工事内容を記した金石文は我が国において初見であり、この石碑は、東大寺の再建や各地の寺院建立、池などの改修に業績を残す著名な僧 重源に関する記述がある史料として貴重な遺物である。
この石碑は、建仁2年に狭山池北堤付近で埋設もしくは設置されて、室町時代〜戦国期の池が荒廃した時代を経て、慶長の改修時に護岸石材として転用されたため、調査時の位置で出土したのであろう。

(石碑の画像をクリックすると、拡大画像がご覧になれます。FILE SIZE=325,092B)

[重源狭山池改修碑文全文:Internet Explorer用Netscape Navigator用]




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