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南河内考古学研究所 文化財情報

富田林市


新堂廃寺

2000.11

富田林市の新堂廃寺で、創建時(7世紀初頭)のものと考えられる塔跡が検出された。(富田林市教育委員会2000.11.14発表)。

今回の調査では、7世紀後半に再建された基壇の約50cm下層から、さらに古い基壇の一部を検出。四天王寺・法隆寺若草伽藍と類似した瓦が出土し、創建時の塔の基壇であることが判明した。この基壇は一辺13.5m。基壇中心部には花崗岩の塔心礎も検出された。塔心礎の柱座は直径80cm。富田林市教育委員会では、基壇の規模・柱座の直径等から、高さ30mを超える五重塔が建っていたものと推定している。

※ 現地説明会は、2000.11.18(土)AM 10:00〜PM 4:00に開催される。


1999.11

富田林市緑ヶ丘町の新堂廃寺で、再建時(7世紀後半)のものと考えられる建物跡が検出され、再建時の伽藍配置が他の古代寺院に例をみない形式だったことが確認された(富田林市教育委員会1999.11.17発表)。
伽藍の東側部分で検出された基壇は、高さが約10cm・長さ12.2m・最大幅1.7mの範囲で確認された。この基壇の伽藍中軸側正面には、長さ1.8m・最大幅1mの突出部が存在しており、階段跡と考えられる。また、側溝とみられる溝からは、白鳳期の瓦と土器が出土している。
この東方建物は、1959年・1960年の発掘調査で中軸西側で確認されている西方建物(長さ27.6m・幅16.4m)と対をなすものである。東方建物の東側からは仏像の一部等もみつかっていたことから、東西両方の建物は「礼堂」であった可能性が高いと考えられている。
新堂廃寺は、7世紀前半に創建されたのちに一度焼失し、7世紀後半に再建されたことが焦土層の存在から判明している。7世紀後半の再建後から8世紀に廃絶するまでの間は、講堂・金堂・塔・中門・南門が南北に一列に並ぶ伽藍中軸の東西両側に大規模な建物が並列する独自の伽藍配置をとっていたことになる。

※ 現地説明会の情報は、[文化財イベント情報]-[富田林市]を参照。


1999.3

富田林市緑ヶ丘町の新堂廃寺で、創建時(7世紀前半)の中門の基壇跡などが確認された(大阪府教育委員会・富田林市教育委員会1999.3.4発表)。中門の他に南門の遺構も検出された。約40年前の発掘調査で確認されていた塔・金堂・講堂と、今回検出された遺構との位置関係から、新堂廃寺の伽藍配置は主要建物を南北一直線に配置する四天王寺式の伽藍配置であったと判明した。
中門の基壇跡と判断される高さ約40cmの盛土は、塔跡の南方17mの箇所に位置する。中門の幅は13.4m。盛土周辺からは、中門に葺かれていたと考えられる飛鳥時代の瓦が多数出土した。この中には、飛鳥寺と同笵素弁蓮華紋(そべんれんげもん)の垂木先瓦が含まれていた。
中門から南方35mの地点では、12の柱穴が確認され、掘立柱建物の南門の遺構と判断された。また、南門の前面には、6つの柱穴が等間隔で検出されており、儀式の際に旗竿(はたざお)を立てるための宝幢(ほうどう)遺構の可能性が高いという。
1959年〜1960年に大阪府教育委員会が実施した調査では、南北65mの範囲において、7世紀後半の白鳳期に再建された塔・金堂・講堂の跡が検出されていた。そして、今回の発掘調査における中門の検出で新堂廃寺の創建は7世紀前半と確認されたのである。

※ 現地説明会は1999年3月6日PM 2:00〜PM 4:00に開催。問い合わせは富田林市教育委員会文化財保護課(TEL 0721-25-1000 内線357)。


山中田1号墳

富田林市山中田(やまちゅうだ)町の「山中田1号墳」を発掘している富田林市教育委員会と富田林市遺跡調査会は1997年1月29日に、同墳の主体部から、ひすい製の勾玉などの625点の玉類と短甲が出土したと発表した。(1997.1.30 朝日新聞朝刊社会面・毎日新聞朝刊等にて報道。)
山中田1号墳は、丘陵尾根上先端付近に立地する直径約25m・高さ約3〜5mの円墳、もしくは前方後円墳で、主体部は割竹型木棺の直葬。墓壙の南東端に、勾玉116個・管玉117個・棗玉(なつめだま)201個・小玉190個・緑色凝灰岩製の石釧(いしくしろ:ブレスレット)が置かれていた。(玉類はネックレス。)
また、小型三角板革綴短甲(1領)が背を上にして横に寝かした状態で出土した。
同市教育委員会は、この古墳の築造時期を、出土遺物等から4世紀末〜5世紀初頭とみている。





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