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304 広開土王碑文、391年倭侵攻に対応する日本書紀の記述が存在する。
2005/11/23(水)13:36 - 曲学の徒 - gif3-p7.flets.hi-ho.ne.jp - 5058 hit(s)

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『記紀』伝承は史実ではないとする、今日の文献史学の主流に対する反論である。

広開土王(好太王)碑文は『倭が辛卯の年(391年)以来、海を渡って、百済
・□□・新羅を破って、臣民とした』とする。
この戦役の記述が『日本書紀』と朝鮮史書『三国史記』に存在する。
『三国史記』は辰斯王八年十月の事として次のように記す。
「王は狗原で田猟(でんりょ)していたが、十日たっても帰ってこなかった。十一月、王が狗原の行宮(あんぐう)で薨去(こうきょ)した。」
辰斯王は狩に出たまま戻ってこなかったのである。何か異常な事態が起きている。その後辰斯王が死んだので、阿しん王が王位に就いたとする。『三国史記』の年次では392年の事である。

一方『日本書紀』は応神三年の条に次のように記す。
「百済の辰斯王が立ち、貴国の天皇に礼を失した。それで、紀角宿禰(きのつののすくね)、羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね)石川宿禰、木菟(つく)宿禰他を遣(つかわ)してその無礼の状を叱責した。これがもとで、百済国は、辰斯王を殺して謝った。紀角宿禰らは、阿花(あけ)を王にたて帰(国)した。」とするのである。
同一の事件の記事であろう。辰斯王は反勢力に暗殺されたらしく、阿しん(阿花)王擁立に、倭が関与したらしいことを伺わせる。

問題はこの辰斯王が死んだ年次である。
『三国史記』高句麗本紀は、広開土王元年「即位した秋七月に、南に百済を征伐して十の城を陥(おと)した」とする。
これに対応する百済本紀の記述は、辰斯(しんし)王八年七月「高句麗が侵入し石けん城など十余城を陥(おとしい)れたとする。」
辰斯王が殺される同年の3ヶ月ほど前の事である。高句麗が百済に攻め入った年を、『高句麗本紀』は広開土王元年とする。
広開土王碑文によれば広開土王元年は、辛卯の年391年である。すなわち391年に大和王権は紀角宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、木菟(つく)宿禰他等を派兵し、辰斯王を倒し、阿しん(阿花)王を擁立しているのである。

そして更に『三国史記』新羅本紀は次のように記す。
奈勿尼師今三十八『倭人来りて金城を囲む。五日になるも解(と)かず。将士、皆出(みない)でて戦うことを請えり。王曰く。今、賊は舟を棄てて深入(しんにゅう)し、死地に在り。鋒(みね)、当るべからずと。すなわち城門を閉ざす。賊、功無くして退く。王、先ず勇騎二百を遣わして、其の帰路を遮(さえぎ)らしめ、又、歩卒一千を遣わして、独山(どくさん)に追わしむ。夾撃して大いにこれを敗(やぶ)る。殺獲するもの甚(はなは)だ衆(おお)し。』

奈勿尼師今三十八年は『三国史記』王暦年表によれば393年となる。
しかし『三国史記』王暦年表は先に述べたように、このあたりで1年の誤りがある。この年次は392年であろう。

成立の過程をまったく異にする、三つの文字資料が、391年から392年に、朝鮮半島南部における、倭の軍事行動を伝える。
『日本書紀』が伝える、応神三年百済への派兵が、大和王権であることは言うまでもない。広開土王碑文の『倭』も『三国史記』の『倭』も大和王権である。
したがってこのあたりの『日本書紀』の記述は、朝鮮史との対応によって、かなり明らかにできる。

『日本書紀』の伝承が、史実の一端を伝えると主張する、私の論拠の一つである。


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