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316 トンデモと峻別について。
2006/3/26(日)03:41 - ひぐちたかし - flt-209-033.kyoto-inet.or.jp - 14863 hit(s)

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 話題が考古学そのものから多少それる事を断りつつ書かせていただきます。
>考古学は他の領域に対して閉じたコミュニティーというわけではありませんし、むしろ今でも無防備なくらいに開いているんじゃないでしょうか。
 いわゆる旧石器捏造問題というのが、学閥を起因とした問題があると聞いている。
友好な意見の交流ができればそれは幸いだが、考古学内で研究者間で個々の排斥などがある以上、
単純に開いたとは納得できない。(『考古学京都学派』など)
 私は邪馬台国問題に関心がないので、『季刊邪馬台国』を読んだことがないが、安本美典氏の巨大古墳の被葬者は誰か』廣済堂1998なら読んだ事がある。現天皇陵のいくつかを治定は正しいのではないかとする意見に異論はあるのかもしれないが、それなりに参考になったと記憶する。ここで反論がくるであろう根拠の一つに記紀の資料を十分に批判的に見る姿勢が足りないというポイントである。考古学にかぎらず古代をテーマにしたネット上には皆さん承知の事ながら古文献を引用した走り書きのような“自説”が散見し、スルーされる状況がたびたびある。無論考古学という学問が何なのか理解していない人間が書いている場合などは論外であるが、小野山節氏の講演会に行った際、渡されたレジュメを見たが、かなり無批判に記紀の年号に基づく年表が貼られていて閉口した。 次にある神社で、『趣味は考古学です』といったら、神主さんに(日本の)『○△山にはピラミッドがあるじゃろ?』といわれ、これまた困った。興味本位にそうした書籍を読んでみたところ、その著者が、考古学に期待するのを諦めるようにある人から、さとされている文章が載っていた。『彼らは土器が出ないと判断が下せないのです』といった内容だったと思う。 
…確かにその通りだ。V.G.チャイルドも『型式によって判断出来ないものに考古学上の意味はない』というような事を「考古学とは何か」岩波新書で述べていたように思う。一方でこういった態度が考古における(文献に対する)正しい『峻別』の態度であるとする研究者もいる。そのフィールドには大型古墳などにおける文献上の被葬者像などは存在しない。しかし奈良県諸地域のような古代史上限定された場所を文献から「峻別」するだけで考察するのは、いささか問題があるかのようにも思う(白石太一郎『考古学と古代史の間』)。付け加えるなら峻別派の拠り所に短絡的なマルクス主義がある点も承服しがたい。
 日本のピラミッド論者を魅了してやまないのは、人工的な石材の加工面(に見える)だ。おおよそこの種の関心に近い問題として『イワクラ』がある。水野正好氏が顧問になって研究するとの事だが、水野氏が講演の席でとんでもない放言を行っている事は、氏の講演を聴いた方ならご存じだろう。とはいえ氏は現在も日本考古学の重要人物に変わりないのである。逆にペトログリフ云々といった岩のひび割れを古代文字だとした集会に春成秀爾氏が呼ばれて不快な思いをされたケースもある。
 私は基本的にと学会に始まる『トンデモ』という表現(商業的キャッチフレーズ)が一般に使われて行くにつれて、浅い見識からなる中傷の意味を持ちうるようになってから、これを嫌っている。他の学界でも理解の浅い対象について同様の攻撃があろう。ちなみに、と学会創設者の一人、志水一夫氏は安本美典氏のファンと自著で公言している。
>難波紘二「言語の起源と意識の発生について」という文がどういう内容か知らないが、物理学の世界でも科学者が『意識』について対象とすることに峻別すべきであるとする研究者がスティーブン・ホーキングであり、推進者がロジャー・ペンローズである。※『心は量子で語れるか』ロジャー・ペンローズ著 講談社ブルーバックス参照。
 何に重きを置いて峻別、あるいは受容するかは個々の研究者にかかってこよう。


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