342 縄文時代稲作についての疑念 |
岡山県彦崎貝塚の報告書が刊行された。
西日本の新聞各紙で大々的に報道された、縄文時代前期のイネプラントオパールについての報告が掲載されていないのが残念である。
私の記憶では、彦崎貝塚では前期(彦崎Z1式期?)段階でイネのプラントオパールがグラム中約2000個検出され、「縄文時代の稲作が証明された」という文脈だったように記憶する(記事の詳細は記憶が曖昧なのでご容赦を)。
少し前に、島根県頓原町の貝谷遺跡で、縄文時代晩期の突帯文土器に籾痕が検出され、さらに早期の層からプラントオパールが検出されたという報告があった。
これらの報道・報告は事実であろう。
だが、同成社『考古学と自然科学B 考古学と植物学』で、グラム中3000個以上のイネプラントオパール検出で水田が存在する可能性が高いとされた見解は、いつ変更になったのか?
同書を基準?とするなら、グラム中2000個は、混入の可能性がないのか?
加えて、プラントオパールは土器をも透過するという。化学変化を起こした土器をも透過するというなら、自然堆積の土層をも透過する(下位層にも達する)可能性はないのか?
以上は、自然科学の分野なので、考古学を専門とする私には判断能力がない。
私がもっとも疑問に感じるのは、縄文時代に稲作が存在するとして、では縄文時代と弥生時代の稲作が歴史的にどう違うのか、という説明なしに、「縄文時代にも稲作があった」という喧伝である。
それの説明がない限り、「縄文時代」は「弥生時代」に取り込まれてしまう(適切な説明があればそれでもいいのだが。)
私が知る限りでは、その説明が明示されているのは、山田康弘「縄文から弥生へー動植物の管理と食糧生産ー」『現代の考古学3 食料生産社会の考古学』朝倉書店 だけである。
「縄文時代に稲作があった」という喧伝だけでは、考古学がその学問的存在を放棄しているとしか思えない。
噂では、関東地方の縄文研究者の大半が、縄文時代の稲作を信じているという。
その証拠は何か?を問いたい。
以前にも述べたとおり、日本のイネ出土資料は九州の突帯文期がほとんどで、「弥生早期」とされる時期である。
これは九州の地域的特色というべきで、汎日本的といえるのか?
デリケートな問題ではあるが、あえて問いたい。
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