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ひつ池西窯 -陶邑窯跡群の調査-


書名:ひつ池西窯 -陶邑窯跡群の調査-
シリーズ書名:大阪狭山市文化財報告書10
発行年月日:1993年3月31日
発行・編集者:大阪狭山市教育委員会
印刷所:橋本印刷株式会社
編著者:植田隆司
体裁:本文67頁・図版13頁、紙質/本文頁=ニュ−エイジ90g・図版頁=高白コ−ト紙110g・表紙=レザック
所収遺跡:陶邑窯跡群ひつ池西窯(HTW窯)
※当文書は、陶邑窯跡群ひつ池西窯(HTW窯)発掘調査報告書の HTML版である。
※当文書のテキスト・画像を他の出版物や Web Page へ無断転載することを禁止する。転載の際は発行者の許可を得ること。

HTML版作成:Takashi Ueda, E-mail:webadmin@skao.net
配布WebSite:南河内考古学研究所
HTML版配布開始年月日:1997年6月27日
HTML版修正第2版配布年月日:1997年11月12日
HTML版修正第3版配布年月日:2000年2月6日(予定)
外表紙
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序   文

大阪狭山市内には、府の史跡名勝に指定されております狭山池をはじめとして、多くの文化財があります。とくに、本市域は陶邑窯跡群の一角に位置するため、市内のいたるところに古墳時代の須恵器の窯跡がのこされています。
こうした窯跡のひとつとして、ひつ池西窯が知られておりました。
ひつ池は、その西岸を護岸するために、コンクリ−ト擁壁を施すこととなりましたが、それに先立って実施された発掘調査によって、須恵器窯と多くの遺物を確認することができました。
先に発掘調査を行なった、太満池南窯北窯狭山池2号窯3号窯池尻新池南窯などに加えて、今回の発掘調査の成果も非常に貴重なものとなりました。本書は、このひつ池西窯の発掘調査結果を記録し、その報告を行なったものです。本書が、考古学研究の一助となり、その責を果たすことができれば、まさに望外の喜びです。
また、本調査に際しまして数々のご指導とご協力をいただきました各位には心からお礼申し上げます。
本市教育委員会としましては、今後とも、文化財の保護・調査・活用に努めていく所存であります。皆様方の温かいご理解とご支援を、よろしくお願い申し上げます。

平成5年3月
大阪狭山市教育委員会教育長 上谷三郎
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例   言

1.本書は、大阪狭山市金剛二丁目9-1に所在する農業用溜池である、ひつ池の西岸部において実施した、須恵器窯跡発掘調査の成果を報告するものである。
2.調査は、ひつ池西岸護岸改修工事に伴うものである。範囲確認調査は平成3年(1991年)2月14日に開始し、同年2月21日に終了した。本調査は平成3年11月18日に開始し、平成4年(1992年)1月14日に現地における全作業を完了した。その後、整理作業と報告書作成作業を、平成5年(1993年)3月まで実施した。
3.現地調査は、範囲確認調査を大阪狭山市教育委員会社会教育課主事 市川秀之が担当し、本調査を同主事 植田隆司が担当した。調査補助員として、津野忠之井上恭輔橋本幸男大塚貴幸の参加協力があり、調査作業員として桜渕繁太郎高林正男の参加を得た。また、遺物整理と報告書作成には、調査参加者のほか、若宮美佐植山てる江五福實幸中尾美津江飯田和子伊月みどり今谷満里子田中妙子森本豊久子浦孝子がこれにあたり、吉本和美安有美子山崎和子笹岡裕里子塔本真知子井上昌代鬼塚里子マウリシオ タム コンタレラス・アレハンドラ ペナの参加協力があった。
4.製図は、遺構・遺物を吉本笹岡が、考察のグラフを山崎が担当した。
5.現地における写真撮影は植田が担当した。出土遺物の写真撮影は阿南写真工房に業務委託し、阿南辰秀氏・伊藤慎司氏がおこなった。航空写真撮影は(株)写測エンジニアリングの協力を得た。
6.本書の執筆・編集は植田がおこなった。
7.本文中の註記は、各章末に記した。
8.出土遺物実測図の縮尺率はすべて1/3に統一した。写真図版における遺物の縮尺率は不統一である。(※HTML版では、出土遺物実測図も縮尺不統一。)なお、遺物実測図と遺物写真の照合は、遺物観察表を参照されたい。
9.第1図第3図の方位は座標方眼北を指すが、第4図の方位および本文中における方位は磁北を用いている。レベル高はT.P.(東京湾標準潮位)値による。
10.なお、この調査で出土した遺物と記録図面・写真は本市教育委員会の埋蔵文化財資料整理室にて収蔵・保管している。ご活用されたい。
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本  文  目  次

序文 大阪狭山市教育委員会教育長 上谷三郎

例言

第1章 位置と環境
第1節 地理的環境:1
第2節 歴史的環境:1
第2章 調査の契機と経過:10
第3章 遺構
第1節 調査の概要:12
第2節 灰原の広がりと層序:13
第4章 遺物
第1節 上部上層灰原出土遺物[HTW-A2]:17
第2節 上部下層灰原出土遺物 [HTW-A1]:17
第3節 下部上層灰原出土遺物 [HTW-B2]:18
第4節 下部下層灰原出土遺物[HTW-B1]:19
第5節 試掘溝内出土遺物:19
第5章 考察 -ひつ池西窯出土須恵器の編年的位置づけ-
第1節 窯跡資料に基づく編年の補強作業方法:50
第2節 蓋身逆転期の窯跡資料の比較:52
(1)HTWの杯身法量とたちあがり:52
(2)HI1の杯身法量とたちあがり:55
(3)TG10-Iの杯身法量とたちあがり:55
(4)TG32の杯身法量とたちあがり:56
(5)TG11-IIの杯身法量とたちあがり:57
(6)TG206の杯身法量とたちあがり:61
(7)TG61の杯身法量とたちあがり:61
第3節 まとめ:62
調査と整理を終えて:66
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挿  図  目  次

第1図 大阪狭山市内埋蔵文化財分布図:2
第2図 大阪狭山市内地形分類図:3
第3図 調査地位置図:9
第4図 ひつ池西窯[HTW]灰原平面図:14
第5図 ひつ池西窯[HTW]灰原土層断面図:15
第6図 ひつ池西窯灰原出土遺物(1):20
第7図 ひつ池西窯灰原出土遺物(2):21
第8図 ひつ池西窯灰原出土遺物(3):22
第9図 ひつ池西窯灰原出土遺物(4):23
第10図 ひつ池西窯灰原出土遺物(5):24
第11図 ひつ池西窯灰原出土遺物(6):25
第12図 ひつ池西窯灰原出土遺物(7):26
第13図 ひつ池西窯灰原出土遺物(8):27
第14図 ひつ池西窯(HTW)出土の杯身の法量:53
第15図 ひつ池西窯(HTW)出土の杯身のたちあがり:53
第16図 東池尻1号窯(HI1)出土の杯身の法量:54
第17図 東池尻1号窯(HI1)出土の杯身のたちあがり:54
第18図 TG10-I号窯出土の杯身の法量:56
第19図 TG10-I号窯出土の杯身のたちあがり:56
第20図 TG32号窯出土の杯身の法量:57
第21図 TG32号窯出土の杯身のたちあがり:57
第22図 TG11-II号窯出土の杯身の法量:58
第23図 TG11-II号窯出土の杯身のたちあがり:58
第24図 TG206号窯出土の杯身の法量:59
第25図 TG206号窯出土の杯身のたちあがり:59
第26図 TG61号窯出土の杯身の法量:60
第27図 TG61号窯出土の杯身のたちあがり:60
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表  目  次

第1表 ひつ池西窯上部上層灰原出土遺物観察表(HTW-A2):28
第2表 ひつ池西窯上部下層灰原出土遺物観察表(HTW-A1):31
第3表 ひつ池西窯下部上層灰原出土遺物観察表(HTW-B2):42
第4表 ひつ池西窯下部下層灰原出土遺物観察表(HTW-B1):43
第5表 ひつ池西窯灰原試掘溝内出土遺物観察表:47
第6表 大阪狭山市域の須恵器窯跡略号対照表(既調査分):51
第7表 蓋身逆転期の窯跡資料分類表:65
第8表 報告書抄録:67
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図  版  目  次

図版1 上空よりのぞむひつ池(航空写真)
図版2 a.調査区全景 b.範囲確認調査
図版3 a.灰原の広がり b.下部下層灰原掘削状況
図版4 a.上部灰原と崩土の堆積 b.上部灰原上面検出状況(半掘)
図版5 a.灰原堆積以前の地形(東から) b.灰原堆積以前の地形(南東から)
図版6 a.灰原堆積以前の地形(北東から) b.溝1・溝2
図版7 ひつ池西窯上部上層灰原[HTW-A2]出土遺物
図版8 ひつ池西窯上部下層灰原[HTW-A1]出土遺物(1)
図版9 ひつ池西窯上部下層灰原[HTW-A1]出土遺物(2)
図版10 ひつ池西窯上部下層灰原[HTW-A1]出土遺物(3)
図版11 ひつ池西窯上部下層灰原[HTW-A1]出土遺物(4)
図版12 ひつ池西窯下部灰原[HTW-B]出土遺物
図版13 ひつ池西窯灰原試掘溝内出土遺物
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第1章 位置と環境

第1節 地理的環境

泉北丘陵と羽曳野丘陵に挟まれた地に位置する大阪狭山市は、旧天野川の氾濫原である狭山池主谷がその市域の南北を貫いている。その狭山池主谷の東西に中位段丘が占地し、さらにその外側に前述の丘陵およびそれに連なる高位段丘がつづく(第2図)。
この主谷からは多くの支谷が分岐している。かつて、旧天野川に合していた三屋川(今熊川)は、現在では狭山池にその水をそそぎこんでいる。この三屋川に沿って走る支谷は狭山池主谷から分岐する支谷のひとつである。
現在、天野川(西除川)と三屋川の水は狭山池に流れ込んだ後に西除川と東除川となり中位段丘上を北上している。これは、近世に支谷を利用して人工的に水路を固定したことによるものであり、それ以前は旧天野川が主谷の沖積低地をそのまま北上していた。
また、狭山池主谷東側の中位段丘では旧天野川と水系を異にする幾条かの河川によって開析が進んだようであり、その箇所では細かな谷筋が形成され、低位段丘および沖積低地となっている。このうちの最も西側の谷筋が、ほぼ現在の富田林市と本市との市境となっている。この谷は、富田林市の廿山方面から流れ下る川が段丘面を穿った結果、形成されたと考えられる。現在、この川は狭山池東除からの放流と合流しており、その合流点よりも上流側も同じく東除川と呼称されている。今回発掘調査を実施したひつ池西窯は、この水系の左岸の段丘崖に立地している。
これらのような中位段丘崖や中位段丘が開析されたために形成された崖面の他に、現在堺市との市境をなしている、泉北丘陵東端の陶器山丘陵とその北側に連なる高位段丘にも細かな支谷があり、至る所に斜面や崖面が形成されている。
こうした多くの斜面・崖面などの段差をもった特徴ある地形が、この地に関わる人々の活動を特色付けてきたのである。

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第1図 大阪狭山市内埋蔵文化財分布図
第1図
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第2図 大阪狭山市内地形分類図
第2図
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第2節 歴史的環境

旧石器時代・縄文時代の本市域内における先人の足跡は、現段階においてはその遺構を確認するに至っておらず、採集された資料から推し量るより他にない。故西野良政氏・上野正和氏・西岡勝彦氏の諸氏は、昭和30年代後半以降、本市域の各所において石器の採集および分布調査等の活動をされてきた。これより以後において、石器が検出されたことはごく稀であり、諸氏の残した成果註1)は非常に貴重なものである。
旧石器時代の遺物としては、晩期旧石器時代の有舌尖頭器寺ヶ池遺跡にて採集されている。また、東野遺跡・池之原地区・ひつ池の各所から採取されたナイフ型石器も、この時代の遺物となりうる可能性がある註2)
縄文時代の石器は、寺ヶ池遺跡東村遺跡大鳥池遺跡・へど池・狭山池・ひつ池・上明池・池之原地区などで石鏃石匙等が採取されている註3)
弥生時代の遺跡としては、茱萸木遺跡註4)がこの時代の遺跡となりうる可能性を有するのみであり、その他では、狭山池池底などの旧天野川沿いの各所において土器片が散見されることと、池尻新池で茎のある柳葉形石鏃が採集されていることを挙げうる程度である。
古墳時代以後の本市域内における人々の活動の痕跡は、近年の新たな調査成果によってほぼ明確に認識しうるものとなりつつある。
旧天野川流域の沖積低地に立地する池尻遺跡では、土坑焼土坑など住居跡となる可能性がある遺構とともに、庄内式のが検出された註5)。この庄内期の遺構の上層では、水田跡が検出され、さらにその上層ではTK43型式の須恵器がその埋土中に含まれる柱穴等の遺構が検出されている。この調査区の最上層の遺構面では、TK217型式の須恵器を埋土中に包含するないしは水田となりうる遺構が検出されており、狭山池が築造される以前から、その下流にあたるこの地では、本市域内の他の地域に先駆けてある程度の規模を有した集落が成立していたといえよう。
古墳時代中期以降、泉北丘陵を中心とした地域で須恵器生産が盛んに行われ、陶邑窯跡群が形成された。5世紀代から6世紀前葉までの窯の造営は、本市域内においては陶器山丘陵およびその北方に連続する高位段丘のみに限定されるようである。発掘調査が行われたものとしては、TK47型式〜MT15型式の須恵器を生産したMT252号窯(山本1号窯)註6)がある。また、その南南東約 800mの地点には、MT15号窯註7)がある。
TK10型式の須恵器を第1次焼成時に産出した須恵器窯は、今までのところ発掘調査が行われておらず、分布調査によってもTK10型式の採集資料は少ないため、6世紀中葉頃の本市域内における窯跡の分布範囲は明らかではない。
増大した需要に対応して、6世紀代陶邑窯跡群の生産活動はより活発なものとなり、窯体の構築場所と燃料の薪をあらたに確保するために、陶器山地区の窯の造営は、丘陵および高位段丘から東方の中位段丘へとその分布域を拡大する。TK43型式〜TK209型式の須恵器を産出する、こうした中位段丘の崖面に築かれた窯跡には、太満池北窯(TMN)註8)太満池南窯(TMS)註9)狭山池2号窯(SI2)註10)狭山池3号窯(SI3)註11)池尻新池南窯(ISS)註12)今熊1号窯(IK1)註13)ひつ池東窯(HTE)等がある。なお、当該期の窯の造営は東除川水系の中位段丘崖より以西で行われ、この谷筋が陶邑窯跡群の東端となっている。
旧天野川の水を堰き止めてダムとする狭山池は、狭山池主谷を横断するその堰き止め箇所である北堤の構築時期をもって池の築造時期とするのが、現在のところほぼ妥当であると考えられる。池築造のための盛土である、この北堤の北斜面を利用して、TK217型式の須恵器を産出した狭山池1号窯(SI1)註14)が築かれていた。また、北堤北側の沖積低地では、池尻遺跡水田跡が検出され註15)、 この遺構面は北堤盛土直下へと続いており遺構面のベ−ス層直下は泥湿地状の堆積土、さらにその下層には河川堆積による川砂層が検出される。この川砂層およびその上層からは、長頸壺横瓶註16)などが出土しており、 これらはTK43型式〜TK209型式を遡行するものではない。よって、狭山池北堤構築の時期はTK43型式からTK217型式の間に求められ、狭山池築造の時期は6世紀後葉7世紀前葉として考えるのが、現在のところ最も妥当であるといえよう。
なお、TK217型式の須恵器を産出する窯にはSI1の他に、狭山池北堤東端が接する中位段丘崖に東池尻1号窯(HI1)註17)があり、東除川水系の段丘崖には本報告書にて報告を行う、ひつ池西窯(HTW)がある。
7世紀後葉から8世紀初頭に至ると、東野廃寺が旧天野川水系右岸の中位段丘上に建立される。
奈良時代には、天平3年(731)以後、僧行基狭山池の改修等を行なったと『行基年譜』等に記されているが、それに関連する遺構・遺物は現在のところ出土していない。
平安時代の遺跡としては、狭山神社遺跡があげられる。狭山神社の参道部分では9世紀の遺物をともなう遺構面が確認されている註18)
鎌倉時代には、僧重源による狭山池改修が行われた。狭山池中樋遺構註19)からは、この時の石樋(いしひ)として転用されていたと考えられる、古墳時代後期の刳抜式家形石棺の身が9個体出土した。狭山池の大正時代の改修の際に、末永雅雄博士により保護された刳抜式家形石棺の3点の蓋と4点の身は、それと同様に僧重源によって石樋として伏せられていたものと考察されている註20)
また、この中樋遺構からは石棺転用の石樋とともに僧重源狭山池改修を記した石碑が出土した。この石碑の碑文には、僧行基天平3年(731)に堤を築き樋を伏せたものの現在は水が漏れて毀破しており、摂津・河内・和泉の三箇國の流末50余郷の人民の請願によって、重源が行年82歳の時、建仁2年(1202)の春に修復を企て、2月7日から土を掘り始め、4月8日から石樋を伏せ始め、同24日に終功するとの改修工事の経過が記され、その間、道俗男女沙弥少児まで同地の人々が手で自ら石を引き、堤を築いたとあり、この結縁をもって一佛平等の利益を願うとの願文がある。
その後には「大勧進造東大寺大和尚 南無阿弥陀佛」の重源を示す名が刻まれ、続いて「少勧進阿闍梨(バン)阿弥陀佛」・「浄阿弥陀佛」・「順阿弥陀佛」の重源の弟子達の名が刻まれていた。さらにその後に、「番匠廿人之内 造東大寺大工伊勢守物部為里」・「唐人三人之内大工守保」の工人の名も記されていた。これらの人名は、東大寺南大門の金剛力士像の解体修理の際に検出された胎内経巻註21)に記された結縁交名の中に確認することができるため、石碑の碑文はきわめて同時代性の高い史料であると考えられている。ところで、狭山池北堤から北方約400mの地に池尻遺跡註22)13世紀前半には営まれており、水田跡屋敷跡などの遺構が検出された。
また、この池尻遺跡を見下ろすことのできる旧天野川左岸の中位段丘上に、鎌倉時代末期には単郭の居館状遺構である池尻城註23)が構えられた。南北朝が分裂してから2年に満たない延元3年(1338)には、池尻半田の地で幕府方の細川顕氏と和泉・河内の土豪とが戦闘を行なっている。また、正平2年(貞和3年・1347)には、幕府軍の篭もる池尻城楠木正行の軍が攻撃した池尻合戦があった。この頃に用いられていたと考えられる太刀の柄頭の金具である冑金が発掘調査註24)で出土している。ちなみに、この冑金には近江源氏の佐々木氏の紋である三目結の文様が彫り込まれている。池尻城が、3つの郭が独立した城郭としての機能を有するようになったのは、先の2度の合戦を経て、当該地の占める戦略的重要性が認識された14世紀後半頃のことと考えられている註25)
さて、僧重源が改修を行なった狭山池は、彼らの願う通りにその役割をはたして下流域を潤していたのであろうか。前述の池尻遺跡13世紀前半の遺構面は、その上面を60〜70cmの厚さの複数回にわたる洪水砂が覆っていた。この地点においては、狭山池北堤の決壊以外にこのような砂層の堆積の原因を想定することは困難である。よって、重源が改修を行なってから数十年後には北堤は決壊し、彼らの願いに反して、狭山池はその機能をほぼ喪失していたと想定されるのである。決壊以降も、改修が行われた形跡はほとんどなく、戦乱の時代に入って下流域の生産能力の安定をはかる努力はなされなかったようである。
慶長13年(1608)豊臣秀頼の家臣である片桐且元によって狭山池の改修が行われた。この時の改修では中樋西樋の2箇所の樋が設置されたと推定される。中樋西樋は4段の取水口を有する尺八樋と呼称されるもので、これらの樋は、近世以降幾度となく行われた狭山池改修の中で補修が繰り返され、大正の改修によって現在の樋が設置されるまでの約300年間にわたってその使用に耐えてきた。中樋遺構註26)西樋遺構註27)の発掘調査では樋本体とその両側に設置された扇板と呼ばれる堤体保護のための塀状施設に、構造船および準構造船の部材の転用が確認された註28)
特に西樋遺構のこの木材は千石級の船の外板などの部材と考えられ、慶長13年以前に使用されていた船であることを考慮に入れると、近世初期の商用の和船である廻船は500石積以下のものが主体であったとされており註29)慶長14年に徳川幕府から安宅船禁止令が下令される以前に用いられていた大安宅船註30)級の軍船の部材であった可能性は高いといえよう註31)
一方、中樋遺構の転用材には縫い釘による板材の連接痕は確認しえないが、舟釘の穴の状況や板カスガイによる板材の連接等は船材のそれと同様のものであり、これらの部材が船の外板であるならば千石級の船の一部となる。この中樋遺構の木材は、現段階では船材である確証を得ることはできないものの、近世の和船において用いられている技術が完全に定形化する以前の、まだ解明がなされていない中世の日本の準構造船の一資料となりうる可能性がある。ちなみに、中樋遺構のこの転用材は、年輪年代測定で1566年+10数年の伐採年代が得られており註32)中樋に転用された1608年まで、22年間〜42年間の船として機能するに充分な年数を有している。
また、中樋遺構の扇板の各々外側には、建仁2年(1202)重源の改修の際に樋管として用いられた家形石棺が、扇板と同様の目的で2段に積み上げられて、再々利用されていた。これと同様に、重源の改修を記す石碑もこの一部に再利用されていたのである。この石碑の表面に認められる墨の遺存から、重源碑文と文章が概ね同じである田中家文書『狭山池修復記』註33)は、慶長の改修でこの石碑扇板として転用される際に採拓されて筆写されたものと考えることができる。
狭山池はこの後、小堀遠州の改修をはじめとして大正末期の改修が行われるまでの間、損壊がおこる度に、約50回におよぶ改修が繰り返され、中世の荒れ果てた状態とは異なり近世から近代にかけて充分にその役割を果してきた。
ところで、近世初期には、豊臣秀吉によって小田原城を落とされた戦国大名北条氏の末裔が、狭山池主谷を挟んで池尻城跡をのぞむ中位段丘上に陣屋を構えた。以後、明治維新に至るまでの間、狭山藩の陣屋は一貫してこの地にて営まれていた。最近では、この狭山藩陣屋跡の域内において、個人住宅の建替え等の比較的小規模な開発が増加している。これらに伴う発掘調査では、天明年間の大火災によって形成された焼土層や灰層を境にしてこの大火以前の下層遺構面と、大火以後から幕末頃までの上層遺構面が存在することが確認され、徐々に狭山藩の陣屋の構成が明らかになりつつある註34)

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註記
1)a:上野正和「狭山の考古学研究と私」『さやま誌 大阪狭山市文化財紀要』創刊号,1992年
1)b:狭山町史編纂委員会『狭山町史』第2巻史料編,1966年
1)c:大阪狭山市役所『大阪狭山市史要』,1988年
2)前出註文献1
3)前出註文献1
4)1960年代後半に、近畿大学医学部附属病院用地造成に伴って発掘調査が行われ、現地説明会も実施されたようであるが、詳細は不明である。
5)市川秀之「仮設グラウンド予定地発掘調査」『狭山池調査事務所平成3年度調査報告書』,1992年
6)楓仁孝市川秀之「山本1号窯発掘調査概要報告書」『大阪狭山市文化財報告書』1,1988年
7)田辺昭三「陶邑古窯址群I」『平安学園考古学クラブ研究論集』10,1968年
8)市川秀之植田隆司「太満池南窯・北窯発掘調査報告書」『大阪狭山市文化財報告書』5,1991年
9)前出註文献8
10)a:植田隆司「平成2年度調査実施報告 発掘調査(SI90-1)」『狭山池調査事務所平成2年度調査報告書』,1991年
10)b:同「狭山池2号窯・3号窯出土遺物整理報告」『狭山池調査事務所平成4年度調査報告書』,1993年
11)a:植田隆司「狭山池3号窯発掘調査報告(SI91)」『狭山池調査事務所平成3年度調査報告書』,1992年
11)b:前出註文献10-b
12)市川秀之植田隆司「池尻新池南窯発掘調査報告-陶邑窯跡群の調査-」『大阪狭山市文化財報告書』7,1992年
13)植田隆司[陶邑窯跡群 今熊1号窯(IK1号窯)発掘調査報告]「大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書4」『大阪狭山市文化財報告書』12,1994年
14)a:市川秀之「池尻遺跡(青少年グラウンド部分)発掘調査報告」『狭山池調査事務所平成4年度調査報告書』,1993年
14)b:植田隆司「狭山池北堤窯発掘調査」『狭山池調査事務所平成5年度調査報告書』,1994年
14)c:同「狭山池北堤窯灰原(池尻遺跡水田遺構埋土)出土遺物整理報告」『狭山池調査事務所平成5年度調査報告書』,1994年
15)前出註文献14-a
16)口頸部を欠損する肩部・体部・底部の破片である。
17)a:植田隆司「東池尻1号窯発掘調査報告」『狭山池調査事務所平成4年度調査報告書』,1993年
17)b:同「東池尻1号窯出土遺物整理報告」『狭山池調査事務所平成5年度調査報告書』,1994年
18)市川秀之「狭山神社遺跡試掘調査報告書2」『大阪狭山市文化財報告書』8,1992年
19)a:狭山池調査事務所『狭山池江戸大改修』(中樋遺構現地説明会資料),1993年
19)b:市川秀之「中樋遺構発掘調査」『狭山池調査事務所平成5年度調査報告書』,1994年
20)末永雅雄『池の文化』,学生社,1972年
21)「東大寺南大門金剛力士像納入文書『一切如来心秘密全身舎利宝筺印陀羅尼経』」は井上一稔『運慶・快慶とその弟子たち』(奈良国立博物館特別展図録),1994年、所収。
22)前出註文献5
23)a:小林義孝『池尻城跡発掘調査概要』,大阪府教育委員会,1987年
23)b:楓仁孝『池尻城と南北朝の動乱』(狭山町立郷土資料館特別展示図録),1987年
24)大阪府教育委員会1985年調査。前出註文献23-a
25)前出註文献23-a・b
26)前出註文献19
26)なお、中樋遺構の西側には同時期に構築されたと考えられる木製護岸遺構が検出された。
26)a:狭山池調査事務所『狭山池遺跡-北堤木製護岸遺構-現地説明会資料』,1993年
26)b:市川秀之「木組遺構発掘調査」『狭山池調査事務所平成5年度調査報告書』,1994年
27)狭山池調査事務所1994年調査。
28)同様の構造船の部材は、韓国の新安で引き揚げられた13世紀の沈没船などにみることができる。
28)金在瑾『新安海底遺物』綜合編,文化公報部・文化財管理局,1988年
29)a:石井謙治『図説和船史話』(図説日本海事史話叢書1),至誠堂,1983年
29)b:『船』(復元日本大観4),世界文化社,1988年
30)織田信長が元亀4年(1573)に建造した大安宅船や、朝鮮戦役用に九鬼嘉隆が文禄元年(1592)に建造した日本丸、毛利輝元が文禄2年(1593)に建造したとされる船、朝鮮戦役後に九鬼守隆や本多忠政らが建造した三国丸・太一丸などが知られており、その形態は『肥前名護屋城図屏風』(佐賀県立博物館蔵)等の絵図によって推定しうる。
30)前出註文献28
31)石井謙治氏・松木哲氏・出口晶子氏のご教示による。
32)奈良国立文化財研究所光谷拓実氏の鑑定による。
33)慶長13年に比丘秀雅僧都が記した『狭山池修複記』。
33)狭山町史編纂委員会『狭山町史』第1巻本文編,1967年
34)a:市川秀之「大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書2」『大阪狭山市文化財報告書』6,1992年
33)b:同「大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書3」『大阪狭山市文化財報告書』9,1993年
33)c:植田隆司「大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書4」『大阪狭山市文化財報告書』12,1994年
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第3図 調査地位置図(●印は窯跡)
第3図
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※当文書は大阪狭山市教育委員会が編集・刊行した発掘調査報告書「ひつ池西窯 -陶邑窯跡群の調査-」『大阪狭山市文化財報告書』10(1993年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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