ひつ池西窯 Page2
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第2章 調査の契機と経過

大阪狭山市金剛二丁目9-1に所在する農業用溜池であるひつ池では、東岸の1箇所、西岸の2箇所における須恵器片の散布が従来より知られていた。
『狭山町史』編纂の際に森浩一氏によって、狭山町内における須恵器窯跡の分布調査が行われ、48箇所の窯跡が確認されている註1)。この調査で、ひつ池では1箇所に窯の遺存を推定され、「20 ヒツ池西窯 III末IV前半 灰原がよくのこる」と記述されている。『狭山町史』第1巻本文編の16頁に掲載されている「狭山町内所在遺跡分布図」では、第20番の窯跡はひつ池西岸の南端付近にドットされており、第21番「ヒツ池西北の窯」はひつ池の岸ではなく、その北方にのびる同一崖面で須恵器片の散布が確認されたことがわかる。
この分布調査をふまえて実施された、大阪府立狭山高等学校地歴部の遺跡分布調査註2)では、ひつ池の西岸南端付近と西岸中央北側付近と東岸中央付近の3箇所に須恵器片の散布が確認された。
大阪狭山市教育委員会では『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』に、森浩一氏の分布調査と大阪府立狭山高等学校の分布調査の両者の調査成果から、ひつ池の岸に3箇所の散布域をドットしている註3)
平成3年に大阪狭山市市民部経済課から、ひつ池護岸改修工事の実施予定がある旨の通知を受けたため、工事予定箇所での須恵器窯の存否、さらにその位置と規模を把握する必要が生じた。よって、平成3年2月14日から同年2月21日の間、ひつ池において事前調査を行なった。調査は、池の冬季吃水線より上位で西岸と東岸の全域にわたって、須恵器片の散布状況の確認から開始した。この結果、東岸中ほどの池中へ半島状に突出した地点と西岸南端よりの地点とに須恵器片散布の集中箇所を認めるに至った。東岸の半島状突出部における散布域内では窯壁片の散布も確認され、同地点付近に窯跡が遺存する可能性は、きわめて高いものと思われる。
今次の改修工事は、池の西岸のみに限定されたものであるため、東岸の須恵器片散布域(ひつ池東窯:HTE)ではその散布状況を確認するにとどめ、『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』にドットされている西岸南端付近の散布域と、同じくドットがある西岸中央北側の箇所において、灰原等の遺存状況を確認するために幅20cm程度の試掘溝を設定した。
この結果、西岸中央北側の箇所では灰土層の堆積は認められず、同地点には窯跡は存在しないと判断した。また、西岸南端付近の散布域では南北約7mの範囲内において、厚さ約10cmの灰土層を確認することができた。さらに、当該箇所西端の崖面では、その最下端の所々が樹木の根と池の水の浸食によって空洞状になっており、その内部で橙色の焼土の露出が観察された。
この事前調査によって、本調査が必要な箇所は池西岸南端寄りの南北約7mの範囲内と確認しえたため、この年は一旦試掘溝を埋め戻し、調査を休止した。
平成3年10月9日付、大狭経第251号にて大阪狭山市長から、文化財保護法第57条の3第1項の規定により「埋蔵文化財発掘の通知について」が提出されたため、同年10月14日付、大狭教社第327号で発掘調査が必要である旨の意見を付して、これを大阪府教育委員会文化財保護課に進達した。これに対して、教委文第1-4072号で「埋蔵文化財の発掘について」の通知が大阪府教育委員会からあった。大阪狭山市教育委員会は第98条の2第1項の規定により、大狭教社第368号で「埋蔵文化財発掘調査の通知について」を提出した。
発掘調査は池の水位が低下して調査が可能となった平成3年11月18日から開始した。
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まず、事前調査の際に設定したトレンチを再び掘削することより開始し、灰原の南北端を再確認した。次に、満水時の池岸となっている崖面に繁茂している樹木の伐採とその根の削除を、南北約4m・東西約2mの範囲内で行なった。
主な樹木の伐採をほぼ完了したのち、トレンチの南北間ほぼ中央で直交する、東西約7mのトレンチを設定し、掘削を行なった。つづいて、南北と東西方向のトレンチにおける土層断面観察に従い、南北約13m×東西約10mの調査区を設定し、灰原上面まで掘削を行なった。灰原は池岸の崖裾でその西端を成し、現状の崖面で窯体断面が表れているものと判断し、灰原上面にて写真撮影と平板測量を行なったのち、灰原の掘削を進めた。しかしその途中で、灰原上面における観察とは異なって、灰原の東端は崖裾の直下からさらに東方へと続いていた。このため、崖部分の崩落土を掘削除去し、灰原上面を検出すると同時に、地山面の立ち上がりの検出に努めた。結果、地山斜面上での灰原の収束を確認し、その最東端部を検出することができた。
この後、灰原全域を各層毎に掘削し、必要な記録措置を行なった上で埋め戻しを行い、平成4年1月14日に調査を完了した。
なお、今次のひつ池西窯の発掘調査は、コンクリ−ト護岸擁壁工事によって破壊が及ぶ箇所のみに限定した緊急発掘調査である。擁壁工事による破壊が及ばない、当該地点東側の住宅地内には、中位段丘の斜面に構築された窯体焼成部燃焼部が、今なお遺存しているものと推定されるので、今後も当該地点付近における開発行為には注意を要する。

註記
1)森浩一「第1章第3節 土器の生産」『狭山町史』第1巻本文編,1967年
2)豊田兼典氏の指導のもとに、市内全域にわたって遺物等の散布調査が行われた。
3)大阪狭山市教育委員会『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』,1992年
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※当文書は大阪狭山市教育委員会が編集・刊行した発掘調査報告書「ひつ池西窯 -陶邑窯跡群の調査-」『大阪狭山市文化財報告書』10(1993年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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