ひつ池西窯 Page3
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第3章 遺構

第1節 調査の概要

ひつ池は、現東除川が中位段丘を開削して形成された支谷を、北側の堤で人工的に堰き止めた溜池である註1)。ゆえに、窯が操業していた古墳時代終末期には、当該地点は南北に連続する傾斜面であり、川は谷底にて南から北へ流れるのみであったと想定される。
ゆえに、この傾斜面を最大限有効に利用した場合、窯の操業に伴って遺棄された灰土は焚口近辺のみならず、谷底付近の斜面裾にまで達している可能性がある。また、斜面の中程に堆積した灰土が崩落などの2次移動によって斜面を滑落し、斜面裾に再堆積している状況も予想される。
この斜面裾部分は、現在では池の泥土によって厚く覆われており、鋼矢板で土留めを施した上でトレンチ調査を実施するか、もしくは、池底全体の泥土をすべてさらえる作業を行なわなければ、この箇所における灰土の堆積の有無を確認することは不可能である。
今次の改修工事では、擁壁工事によって影響を受ける範囲は池岸近辺のみに限定されるために、池底における灰土堆積の確認は行わないこととした。
よって、岸部の南北13m・東西10mの範囲内において調査を実施した。崖下の斜面では現在確認しうる灰原の東端とその南北端の検出に努めた。岸部崖面では窯体焚口部の確認に努めたが、調査が必要な範囲内には窯体は構築されておらず、灰原が急斜面で収束し、その西端を成している状況を検出した。
この灰原は、後述のように4層に分層しうるため、各層ごとに遺物を取り上げた。また遺物の出土地点を概ね記録すると同時に、後日の遺物接合作業を円滑に進める目的もあり調査区を4区に分割して発掘を行い、各区ごとに遺物を取り上げた。なお、本調査において、出土した遺物の総量はコンテナバットにして約30箱分である。
また、灰原各層は比較的に薄いものであるため、その上層にあたる褐色系砂質土を除去し、灰原の各層の上面が段状に露出した状態で平板測量を行い、コンターラインと灰原の範囲を記録した。灰原掘削完了後にも、灰原堆積前の地形および土地利用状況を確認するために、地山面において平板測量でコンターラインと遺構を記録した。

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第2節 灰原の広がりと層序

本窯の灰原は、4層の灰土層より形成される(第4図第5図)。
明橙色焼土層を内包する黒色灰土層の上部下層灰原[HTW-A1](以後A1と略記)は、標高86.0mにある地山面の傾斜変換点より上方の急斜面に堆積している(第4図第5図)。A1は最大で約40cmの厚みを有し、コンターラインに平行する方向で3.2m、これに直交する方向で1.1m以上の範囲内に堆積が確認された。この灰土層中には、杯蓋杯身平瓶短頸壺長頸壺等が包含されており、残存状態の良好な須恵器が多いようである。
橙色焼土を含む灰褐色灰土層の上部上層灰原[HTW-A2](以後A2と略記)は、標高 85.75mより上方で、A1の直上を被覆している。A2は最大で約55cmの厚みを有しコンターラインに平行する方向で4.5m、これに直交する方向で2.3m以上の範囲内に堆積していた。A2の灰土中からは、杯蓋杯身長頸壺ハソウが出土しており、それら個々体の残存状態は良好である。しかしながら、灰土中に包含される須恵器の数量はA1のそれに比して少ないようである。
ところで、A1とA2の一部はその下端を地山面に接している。この箇所の地山面には長さ 2.2m以上・幅約0.8m〜1.9m・深さ約30cmの斜面に直交する溝1が掘られていた(第4図下段)。溝1は斜面上方では調査区外へと伸び、斜面下方では大きく開いて標高86.0m付近で終わる。この溝の埋土は、斜面上方ではA1で、斜面下方ではA2であった(第5図中段)。溝1の南側ではこれに並行して、溝2が検出された。溝2は長さ1.4m・幅約0.6m・深さ約20cmを測り、斜面上方では標高86.75m付近で完結し、斜面下方では標高86.25m〜86.50m付近で上端と下端の落差をなくして終わっていた。溝2の埋土も溝1と同様にA1A2であった。
この2条の溝の用途は不明であるが、雨水等の流水によって浸食を受け、形成されたものではなく、明らかに人工的に掘削された遺構である。加えて、その底部から上端に至るまで、A1A2の灰土が埋土となっていたため、これらの溝が掘削され、一定期間何らかの役割を果したのちにその機能が喪失され、その直後に、窯体から掻き出された灰土によって埋められたと想定される。もしくは、窯体から灰土を掻出し、傾斜面に遺棄する際に灰土が斜面に滞留せず、斜面下まで容易に滑落させる機能を有していたのであろうか。
さて、A2の上面では、その面での標高86.25m付近より西側で、橙色系砂質土・黄褐色系砂質土・褐色系砂質土等が上層にみられ、約1.3mの厚みを有している。これらの土層の東端が崖面となって、当該箇所における現在のひつ池西岸部をなしている。A1A2直下の地山面は、調査区外西側でさらに立ち上がっていると考えられ、灰原の上層に堆積するこれらの土層中には焼土が多く含まれていることから、橙色系砂質土・黄褐色系砂質土・褐色系砂質土は窯体が崩壊した際に崩落した土、もしくは後世の改変に伴う流入土か盛土と推定される。
この付近の土層堆積状況は、第5図下段のC-C'軸の土層断面によく表れている。この土層図における24・25番の淡黄褐色砂質土は、A1A2灰原の下層にあり、灰原堆積に先行するものであると理解される。この土層には焼土が多量に包含されており、A1A2灰原が堆積する前段階において、操業中の窯体崩壊や操業開始期における窯体改修があったのではないかと想定される。
暗灰青色灰土よりなる下部下層灰原[HTW-B1](以後B1と略記)は標高85.50m付近より下方の斜面に堆積している。B1は最大で約20cmの厚みしかなく、地山面における標高84.0m付近の傾斜変換点近辺である程度の厚みを有するほかは、比較的薄く地山面上を被覆する。その規模は斜面に平行する方向で11.8m、これに直交する方向で5.8m以上を測り、調査区外東側では5.0cm以下の厚みで斜面下へとさらに続く。B1の灰土中には、杯蓋杯身短頸壺等が包含されているが、その残存状態はA1A2のそれに比して良好とはいえず、砕片となって出土したものが多い感がある。
B1の上層には褐色砂質土層・明黄褐色粘土層があり、その上面を被覆している。標高85.25m付近では、B1の上面を覆う褐色砂質土を間層として、その上層に下部上層灰原[HTW-B2](以後B2と略記)が堆積している。B2は焼土を含む褐灰色灰土層であり、その厚みは最も厚く堆積した箇所においても30cmに満たない。標高85.75m〜86.0m付近では、B2A2の上面を被覆しており、本窯の灰原中で最も上層に位置する。その散布域は南北方向に長く、斜面にほぼ平行する方向で6.9mを、これに直交する方向で最大2.2mを測る。B2の灰土中からは、杯蓋杯身高杯が出土している。他の灰原に比して、遺物検出数は少ない。
ひつ池西窯灰原は、このように4層の灰原より形成されていた。複数回の焼成が本窯で行われた場合の廃棄過程において、前回の焼成に伴う灰原のある程度の部分をさらに遠方へ運搬し、その箇所に今次焼成に伴って生じた廃棄物を掻き出すといった片付け行為が行われていないと仮定するならば、上部下層灰原[HTW-A1]・上部上層灰原[HTW-A2]・下部下層灰原[HTW-B1]下部上層灰原[HTW-B2]という順に廃棄が行われ、堆積したと考えうる。しかしながら、上部灰原に較べて下部灰原の須恵器には砕片となって検出されたものが多いことや、下部上層灰原の灰土に砂質土が混入してその色調が褐灰色となっていることなどから、下部灰原が2次移動によって形成された可能性も残っている。

註記
1)ひつ池築造の時期は現在のところ明らかでないが、水下にあたる池尻新池付近の潅漑工事の実施された年代等から、中世〜近世前半までのいずれかの時期に築造されたと類推される。
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第4図 ひつ池[HTW]灰原平面図 (上段:灰原堆積状況、下段:灰原堆積前)
第4図
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第5図 ひつ池[HTW]灰原土層断面図
第5図
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※当文書は大阪狭山市教育委員会が編集・刊行した発掘調査報告書「ひつ池西窯 -陶邑窯跡群の調査-」『大阪狭山市文化財報告書』10(1993年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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