狭山池 埋蔵文化財編page4 [第1章]
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第3節 狭山池周辺の歴史環境

次に狭山池の周辺および、狭山池に密接に関連する狭山池灌漑範囲における歴史的環境について述べる。

狭山池内部においてはいくつか縄文時代のものと思われる石鏃などの打製石器が採取され、また近くの寺ヶ池においても旧石器時代の有舌尖頭器が、またひつ池や池之原でもナイフ形石器が採集されている。寺ヶ池においては縄文時代のスクレイパー石鏃が大量に採集されており、当時から狭山池周辺が縄文人の狩猟の場であったことが推測できる。付近の縄文時代の集落遺跡としては錦織遺跡が著名であるが、旧天野川流域ではこの時期の集落遺跡はいまだ確認されていない。弥生時代後期になると狭山池周辺でも集落遺跡がみられるようになってくる。狭山池の南側約3kmの場所にある茱萸木遺跡は弥生時代後期の高地性集落である。しかしながら中野遺跡大師山遺跡などがみられる石川流域に比較して旧天野川流域には弥生時代以前の遺跡は極めて少ない。

古墳時代にはいると狭山池西側の泉北丘陵には多くの須恵器窯が築かれ、当時のわが国における代表的な須恵器生産地の一部を形成する。5世紀に開始された須恵器生産は6世紀に至り、爆発的な発展をみせ、窯の数も急激に増加する。それにともない、当初は西部の丘陵地帯に限定して分布していた須恵器窯も東部にまで広がり、登り窯の築造には比較的不向きな段丘崖や小規模な谷を利用して窯が造られるようになる。本書において報告する狭山池の東岸を形成する段丘崖に築かれた窯もその一部である。古墳時代の遺跡としてはこれまで須恵器窯の存在が知られていただけであったが、狭山池ダム化工事にともなう発掘調査によって狭山池北側の低地において古墳時代前期から継続する池尻遺跡が発見されている。

この地域の生活史にとって狭山池の築造は非常に大きな意味を持っている。狭山池が築造された7世紀初頭を契機として、狭山池周辺および流域地域では遺跡の様相に大きな変化が生じている。狭山池にもっとも近い池尻遺跡では整然とした畦をもつ水田が検出されており、また下流の美原町域においても大規模な集落遺跡がみられるようになる。太井遺跡においては6世紀末から7世紀中葉にかけて東西あるいは南北方向の溝がみられるようになり、7世紀から8世紀にかけては集落が営まれるようになる註3)平尾遺跡においても6世紀末から7世紀中葉にかけての整然と並んだ大規模建物が検出されている註4)。またこのような集落遺跡の増加とも関連して狭山池周辺では寺院の建立がみられるようになる。狭山池の北方約4kmに所在する黒山廃寺は、出土する瓦から考えて7世紀後半の創建と考えられ、また狭山池の北1.5mの東野廃寺7世紀中葉から後半の創建と考えられる註5)東野廃寺狭山池中樋筋のもっとも重要な子池である太満池にほど近く狭山池の水利にかかわった可能性が強い。これらの集落遺跡の増加や寺院の建立は狭山池築造と深く関連した事項として考えるべきであろう。

築造以後、狭山池の周辺では狭山神社遺跡半田遺跡池尻城跡狭山藩陣屋跡など各時代の遺跡が段丘面を中心に展開されることとなる。狭山神社は延喜式にも記載された古社であるが、背後に広がる森林にはコ字型の土塁がめぐっていることも近年実施された測量調査などで明らかになっている註6)。この土塁内部については部分的な試掘調査も行われているが、平安時代のをはじめとする多くの遺物が検出されている註7)。また半田遺跡においても大阪府立狭山高校の建設にともなって大規模な発掘調査が実施されている註8)。この調査では中近世の集落跡が検出されている。古代、中世の集落遺跡や寺院は狭山池の水下でも同様に多数検出されている。美原町から堺市にかけて広がる日置荘遺跡では8世紀以降継続的に集落が営まれる。特に13世紀の集落からは鋳造遺構が検出されているのが注目される註9)。同様の鋳造遺構は美原町の太井遺跡丹上遺跡、松原市の立部遺跡など狭山池水下の多くの遺跡から出土しており、文献史料によって知られていた河内鋳物師の活動の痕跡を示すものと考えられている。狭山池の影響を農業面だけで評価すべきでなく中世村落の中にも工業など多様な要素が混在していたことが示されている。狭山池のすぐ北に所在する池尻遺跡では13世紀屋敷跡が検出されており、またそのすぐ東の庄司庵遺跡でも13世紀後葉の土器が出土している註10)狭山池では建仁2年(1202)重源による改修が行われているが、これらの遺跡は狭山池の改修と関連した再開発によるものである可能性がある。先に述べた日置荘遺跡では14世紀にはいると周囲を堀によって区画された一町四方の大規模な居館が建設されている。この遺構はその規模から考えて南北朝の内乱と関連する遺構と考えられるが、同時期の城は美原町の大饗城や、堺市の野田城など西除川沿いに点々と分布している。狭山池のすぐ北東にも池尻城が所在している。この遺跡は大阪府教育委員会によって発掘調査がなされ、13世紀末から15世紀前半にかけての城館であるとみられている註11)池尻城の立地はこの場所が下高野街道沿いの交通の要地であったことによるものと考えられるが、狭山池の水利を掌握する目的もあったのではなかろうか。

近世にはいると狭山池の畔には狭山藩陣屋跡が築かれる。狭山藩陣屋跡狭山池の北東に設置された上屋敷と、狭山池東側(現在の南海さやま遊園地)の下屋敷から構成される近世の陣屋跡である。陣屋は狭山池を一種の防御線として利用して設けられたものであり、支配の面でも狭山池との関連が深い。

図5 狭山池周辺遺跡分布図isekibnp.pdf (PDFファイル 1.54MB)

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所