本節では狭山池をめぐるこれまでの調査、研究の成果の整理を行うこととしたい。
狭山池内外における遺跡の有無、あるいはその性格については、狭山池の築造、修復の問題と深く関連しながらこれまで議論が重ねられてきた。このように狭山池の研究が比較的多かったのは、すでに述べたように狭山池の名が記紀にも登場するわが国でも最古の段階の溜池であると考えられ、しかもその灌漑範囲が百舌鳥と古市の両古墳群の間という古代史上の重要地点にあたるからである。
初期の狭山池研究をリードしたのは地元狭山の住民でもあった考古学者末永雅雄氏であった。大正から昭和にかけての狭山池大改修に際して、文化財調査を担当した末永雅雄氏は、北堤の中において石棺を転用した石樋などを調査している。これらの調査成果は『大阪府史蹟名勝天然記念物第1号』註12)『狭山池改修誌』註13)などに掲載され、その後の研究の基礎資料となっている。末永氏は戦後に著書『池の文化』註14)を発表しているが、その中で池岸の須恵器窯との時期的な問題に触れ「たとえ狭山池がすでにそのむかしに築造されてあったとしても、貯水位が低く汀線はずっと今日よりも内方にあって、陶業者達はこの水を利用して製陶に従事したと考えると、いま窯跡はいくらあっても池の築造年代を、右の貞観元年の記事に準拠しなくもよく、その年代的な長さは須恵器の初現に遡ることができるから西暦三世紀を下ることはなかろう。」と述べている。狭山池の築造年代は末永氏以来常に周辺の須恵器窯との関連で論じられてきた。森浩一氏は、昭和30年代に当時の狭山町内の須恵器窯の分布調査を行い、昭和42年(1967)に刊行された『狭山町史』の中で狭山池内における5ケ所の須恵器窯について解説している註15)。森氏はその後、『大阪府史』第1巻のなかでこれらの須恵器窯の年代が6世紀であることを根拠に、狭山池築造の年代を6世紀後半から7世紀初頭と推定している註16)。狭山池内の須恵器窯と、狭山池築造年代の関連については、森氏以後、野上丈助氏も狭山池内の須恵器窯と池の築造年代の関係について触れ、森氏の見解にほぼ賛同を示している註17)。これらの研究はいずれも狭山池周辺の遺跡のうち、須恵器窯について注目したものであった。今回のダム化工事以前には冬期に池水が干上った時、池内を歩いてみるとかなり広い範囲で須恵器片の散布がみられ、その中には明らかに窯の灰原と思われる箇所も見られた。しかしながら、これらの発掘調査は未実施であり、詳細は不明であった。また須恵器窯以外の性格の遺構については、その存在すら議論されることもなかった。その中で1985年狭山池西北部の高台において大阪府教育委員会によって池尻城跡の発掘調査が行われている註18)。池尻城は狭山池の築造よりはるかに後世の南北朝時代の城跡であったが、この発掘によって狭山池周辺にはさまざまな性格の遺跡が散在し、それらとの有機的な関連において狭山池の歴史的性格を考える必要が明確となってきた。この池尻城跡の発掘調査においても多くの奈良時代の遺物が出土し、行基が設けたといわれる狭山池院との関連が指摘されたのはその一例であろう。
また昭和初期の改修工事によって中樋の下流側からは計7基の石棺等が出土している。これについては調査を担当された末永雅雄氏はさまざまな著書において、その図面を報告し、また「南無阿弥陀仏作善集」などの記載から、鎌倉時代初頭の僧重源の改修によるものと推測している註19)。
今回の狭山池ダム化工事にともなう文化財調査が開始されて以降、本書でも報告する諸遺構の出土をみたため、それらを材料として研究がいくつか出されている。工楽善通氏は狭山池にみられた敷葉工法の類例を広く集め、その源流を朝鮮半島や中国大陸に求めた註20)。また市川も狭山池で検出された樋の形態を紹介し、他の樋の出土例も参照しながらわが国における樋の系譜を解説している註21)。
狭山池の名は古事記や日本書紀に次のように記載されている。
狭山池は奈良時代に僧行基によって改修が行われたことが『行基年譜』などの文献資料にみられる。また天平宝字6年(762)にも堤が決壊したため83,000人余の労働力を投入して工事が行われたことが『続日本紀』にみえるが、これらの改修については井上薫氏が詳細な研究を行っている註24)。
中世については東大寺の再建工事を進めた僧重源が狭山池の改修を行ったことが「南無阿弥陀仏作善集」に記されている程度で文献資料はきわめて少ない。したがって中世の狭山池をめぐる研究もほとんどなされていない状況である。しかしながら中樋遺構の発掘調査によって重源狭山池改修碑が検出されたことにより今後中世の狭山池の研究が進展するきざしがみられる。
狭山池は近世初頭の慶長13年(1608)に片桐且元によって大改修が行われている。本書に報告した中樋遺構をはじめとした諸遺構も大半がこの改修によって築造されたものである。近世にはこの改修以後も度々改修が行われている。近世の狭山池については多くの古文書、絵図が地元に残されていることもあって研究が多い。喜多村俊夫氏は全国の水利慣行を歴史的に集成した研究の中で狭山池西樋筋の中心的な溜池であった轟池の潰廃と、それを利用していた中筋村など堺廻りの農村の水利について述べている註25)。また福島雅蔵氏は『狭山町史』など多くの著書、論文で狭山池の水利慣行、水利組織について述べている註26)註27)註28)。福島氏の研究は狭山池が下流に与えた影響をみる上で重要である。ただ近世史においても今回の発掘で検出された樋や堤など水利施設の土木史的な研究はない。
狭山池関係の文献史料については、近世を通じて池守を務めた田中家文書をはじめ、流域旧家にも多量に残されている。これらの一部は『狭山池改修史』註29)や1966年に刊行された『狭山町史』史料編註30)に掲載されている。狭山池調査事務所でも調査開始以来、近世文書、絵図の収集、写真撮影、読解などの作業を継続し、平成7年度に『狭山池』史料編註31)を刊行している。狭山池の発掘調査は、考古学的な発掘データと、豊富に残された文献史料を照合しながら進めていく必要がある。
文献史学や考古学の成果を取り込みながら、地理学の立場から狭山池の全容を解明したのが日下雅義氏の研究である註32)。日下氏の研究は、狭山池周辺の地形分類をもとに各時代の狭山池を復原したもので、築造当初の狭山池の堤が現在のものより随分小さかったこと、堤の嵩上にともなって池の面積も推移したことなど非常に重要な指摘を随所に含んでおり、今回の発掘調査を進める上で大きな指標となった。日下氏の研究は自然地理学と歴史地理学の境界領域を開拓したものといえるが、人文地理学の立場から狭山池および水下の溜池にアプローチした研究として川内眷三氏の一連の研究がある註33)註34)。川内氏の研究は溜池の潰廃状況を主として考察したものであり、これまで遺跡として扱われてこなかった溜池の保存活用を考える上でも重要である。
土木工学、地質学など自然科学から狭山池を取り上げた研究は今回の調査が開始されるまではほとんどなかった。しかし狭山池の文化財調査は、発掘だけではなく、文献調査や自然科学的な調査を含んだ総合調査の形をとったこともあって調査開始後は多くの研究がうみだされることとなった。ことに現地調査や、ボーリングデータの分析によって堤体の構造および池内の堆積物については多くの研究が蓄積され、これらの成果は発掘調査を進める上で重要な示唆をあたえた。また堤体や堆積物の年代決定などの面で発掘成果や文献調査の成果が、これらの研究に利用されることも多く狭山池においては総合調査は非常に良好に機能したといえよう。また大阪府土木部によって進められている北堤断面の保存処理についても、わが国でも初めての試みであることから、その保存処理方法をめぐって多くの研究が蓄積されている。これらの自然科学的な調査の成果のうちいくつかについては、今後刊行される『狭山池』論考編において紹介される予定である。またこれらの研究のうちいくつかはこれまで学術雑誌などに発表されている。註35)註36)註37)註38)註39)註40)註41)註42)註43)註44)註45)註46)註47)註48)註49)