狭山池 埋蔵文化財編page11 [第2章]
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II 東樋上層遺構

[調査の経過][遺構の概況][取水部][樋管][排水部][墨書][刻印等][遺物][小結]
1 調査の経過

昭和の大改修以前に狭山池には中樋西樋という2つの樋が存在していたが、今回の一連の発掘調査の結果、その遺構については詳細を知ることができた。しかしこの2つの樋のほかに北堤の北東側には「金樋尻」という小字名があり、カナヒという金属製の樋が存在したという伝承が地元には存在した。またいくつかの近世文書や絵図にもカナヒの記載がみられる。狭山池調査事務所でもこの伝承を重視し、池尻遺跡(2)の試掘調査などでもその存在を念頭において事前調査を実施したが、結局該当する遺構は発見することができなかった。ところが1994年の初冬、ダム工事の一環として北堤の掘削を実施していたところ、突然北堤の東端において木製の樋が検出された。樋の内部は空洞であったためにビニールパイプなどを突っ込み、その長さを確認したところ、30m以上に達することが明らかになった。ダム工事の建設サイドとしては空洞が堤体内に存在することは設計上認められないとの判断もあり、協議の結果、堤体を開削し、発掘調査および遺構の取り上げを実施することとなった。

発見当初は樋は一本のみ存在すると考えていたが、調査のために掘削を進めるうちに、上の樋の直下にもう1本の樋が存在することが判明した。当初この遺構については伝承を重視しカナヒ遺構と呼んでいたが、上下2本の樋管が確認できたために、中樋遺構西樋遺構との整合性も鑑み、東樋遺構と呼称することとした。上下2本の樋管については上を上層遺構、下を下層遺構として区別した。調査は1994年11月から1995年5月まで行った。また1995年2月19日には現地説明会を実施した。

なお、東樋遺構の発掘に際しては北堤を断ち割ったので、その断面についても実測、写真撮影などを行ったが、その詳細については中樋付近の断面調査の結果とあわせて第1節で報告している。

写真27 狭山池絵図(田中家文書)写真28 上下二本の樋管
狭山池絵図(田中家文書)上下二本の樋管

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2 遺構の概況

上層遺構北堤に対して垂直に設置されており、遺構の全長は72.8mに及んだ。中樋遺構西樋遺構の場合は長く使用されてきたことが、逆に災いとなって昭和初期の改修のときに大半が撤去され、取水施設の一部のみが残存しただけであったが、東樋上層遺構は幸いにして取水部から排水部までの全体が残されていた(付図4参照)。

上層遺構の東西方向断面は図58に示す通りである。A-A'-A''が上層部設置のための掘削面である。上端幅390cm、底幅120cm、深さ160cmの溝状の掘削をまずおこない、固く締めたシルトや粘土で30cm程度埋め戻し、その最上層には礫を含んだ細砂を敷いてその上に樋管を設置していた。樋管の周囲は粘土質の土で巻きその上に堤防の土が積まれている。この断面の場所では上層遺構にともなう掘削の時には下層遺構の上面にまで至っていないが、取水部などでは完全に下層遺構の面まで掘削が及んでいる。上層遺構の調査に際しては、樋管周囲の埋土を除去し樋管を露出させ、実測、写真撮影等の作業を実施した。

図58 東樋上層・下層遺構東西断面図 付図4a地点,図59 東樋上層遺構東西断面図 付図4b地点,図60 東樋上層遺構取水部平面図,図61 東樋上層遺構取水部立面図,図62 東樋上層遺構取水部立面図,図63 東樋上層遺構取水部断面見通し図,図64 東樋上層遺構排水部平立面図jhiga-tr.pdf (PDFファイル 1.74MB)

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3 取水部

東樋上層遺構は大きく取水部・樋管・排水部の3つにわけられる。取水部は中樋西樋と同様に4本の柱を地中に打ち込み、その間に板材を張って箱状にした部分と樋管の一部、さらに前方に八の字形に突き出した部分からなっている。

箱部分の長さは248cm、幅184cmであった。柱は4本ともに最上部が欠損しているが、もっとも高いものは樋管の底板から344cmであった。ただし後方の柱は樋管の底板よりさらに58cm地面を掘削して埋め込んであり、この部分まで含めると残存長は394cmとなる。後方の柱にはほぞ穴があけられこの部分の樋管の下側を通る枕木に接続していた。この柱を埋め込むための掘削によって下層遺構の上面が出土し、柱の基礎として下層遺構を利用していた。

また前方の2本の柱は樋管の下部の部分で終わっていた。取水部の前方には板材は張られておらず、両側面と後方の3面に板材を縦方向に並べて張った壁が存在した。側面の板材(壁板)は前方の2本の柱の外側、および後方の2本の柱の内側に釘によって接続されていた。つまり4本の柱は後方がやや開いた台形状に配置されていることになる。壁板は東側が5枚、西側が6枚で、前方、後方の柱に2箇所ずつ鉄釘で固定している。後方の板は6枚。板の厚さは8cmであった。

東樋上層遺構西樋遺構中樋遺構などと構造の上で大きく異なるのは、尺八樋ではなく一段のみの樋であることである。また柱と板材を組み合わせた箱型の構造をもつことは同じであるが、組合せ方や樋蓋の設置法の点で両者とは差がある。西樋遺構中樋遺構では後方の2本の柱の内側を彫りこんで、そこに水門を設置する構造になっているが、東樋上層遺構では樋管の上面にも直径18cmの穴があけられていた。これは他の2つの樋ではみられなかったものである。おそらくここに先端を尖らせた杭(男柱)を差し込み、それを上下させることによって水の出入を行っていたと考えられる。つまり東樋上層遺構においては樋管上面の穴と、前方の樋蓋の二つの取水方法が存在したのである。現在の溜池を観察するかぎり、日常的な水の出入は上面の穴を利用して行い、水が極端に少なくなった時や、樋管の掃除の時には前面の樋蓋を利用したことが推測できる。

東樋遺構の取水部、樋管はすべてヒノキ材を用いているが、樋蓋のみはクスノキ材を使っていた。樋蓋は縦54cm、最大幅78cm、厚さ18cmで、下から28cmについては樋管に彫りこまれた溝にはまるように加工されている。引き上げの便のために中心に残存長312cm、幅18cmの柱が付いている。これは3本の鉄釘によって、樋管と接続されていた。なお取水部の箱型部分の後側の板にはいくつか墨書がみられた。この墨書については後述する。

取水部の前方には八の字型に開いた擁壁状の遺構が存在した。同様のものは中樋遺構においても検出されており、近世文書の表記にしたがって扇板と呼んでおきたい。左右の扇板は樋管の延長方向からそれぞれ外側に35度開いた角度をもっている。西側は5枚、東側は4枚の板材を縦方向に並べて壁状にしたもので、両側とも一番上の板は破損が激しいが、残存高は西側が143cm、東側が118cmであった。扇板の長さは西が370cm、東が368cmである。両側ともに上流側にむけて斜めの状態で立てられており、地面に対する角度は平均で82度であった。板を立てるために西側には3本、東側には2本の杭が打たれている。また板の背後には堤体の土が入れられていたが、扇板が前に倒れるのを防ぐために、西側で2本、東側で1本の杭が打たれていた。これは板に穴をあけ、穴を通して杭を背後の土に打ち込んだもので、板より杭の頭を少し出し、その部分にピン状の小杭を打ち込んで板と接着していた。この杭は現在でいうアンカーボルトの役割を果たしていたと思われる。

写真29 東樋上層遺構取水部(上から)写真30 柱材のほぞ穴
東樋上層遺構取水部(上から)柱材のほぞ穴

写真31 取水部の基礎にされた東樋下層遺構写真32 取水部上面の穴
取水部の基礎にされた東樋下層遺構取水部上面の穴

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4 樋管

東樋上層の樋管は材木を図77-1のように接続して作ったものである。なお以下の叙述における樋の部位の名称については中樋遺構の項で示した図34に従っている。樋管の砂蓋は側板の上にのり、側板は敷板を挟むように立っている。側板は敷板の鉛直方向に対して左右とも15度ずつ外側に開いているため、断面は上が開いた台形である。多少のバラツキがあるものの外縁は高さ33cm、上辺48cm、下辺は36cm。また内部は高さ11cm、上辺は27cm、下辺は16cmである。内部の断面積は344cm2となる。

砂蓋は取水部内に3枚、樋管部には164枚残存していた。ただし下流側の砂蓋は相当腐食してなくなっていた。また年輪年代法のサンプルのために付図4の作成時には2枚分を取りのぞいている。

砂蓋の長さは85cm程度のものが多くバラツキは少ない。また砂蓋の幅は最大が68cm、最低のものが20cmで、40cm程度のものが多い。砂蓋は上方から左右2本ずつの鉄釘を打ち、側板に固定していたが、幅の大きなものには左右3箇所、小さなものには1箇所ずつ釘を打ったものがみられた。釘を打つときには12cm×7cm程度の大きさの穴をまずノミで彫り、そこに鉄釘を打ち込んでいた。また鉄釘のまわりにヒノキの樹皮を巻き付けて打ち込んだものがみられた。また取水部のなかに入りこんでいる3枚の砂蓋については鉄釘だけではなく、側面に鎹を打ち込んで両側板に固定している。さらに砂蓋には設置する順番を書いたと思われる墨書や、刻印などがあったが、これについては後述する。

側板は厚さ57cm、幅47cmの長い板材を連結したものである。長さは最も長いものが737cm、短いものは487cmである。材木は東西とも10枚であるが、両側の側板は同じ場所で連結されているのではない。つまり東西の側板を異なった場所で連結させることによって横方向への強さを確保したと考えられる。側板は平均37cm間隔で鉄釘が打たれ、敷板に固定されている。また側板同士の接続方法は取り上げ時にも砂蓋を外さなかったために詳細は不明であるが、接続点付近では下流側の側板に3本から5本の釘が打たれており、側板がソケット式に組合されている可能性がある。また側板にはその形状から考えて船の材木を再利用したと考えられるものが2点あった。この材には犬や魚の落書が墨書で施してあった。他の材木にも墨書がみられたが、これらは板を組む際の方向と順序を示したものと思われる。西側の側板のうちもっとも下流側のものは二つに割れており、それを鎹で補修していた。この補修が築造当初のものであるのか、後世の補修であるのかは不明であるが、この部分の破損の激しさを考えると、後世のものである可能性が強いだろう。

樋管のうち排水部から715cmまでの部分は板の腐食が甚だしく、釘も錆びていた。これは東樋敷設後ある時期までこの部分が堤の外に露出していたため痛みが激しかったためと思われる。樋管の先端から損傷が始まる部分までの長さは55.7mであり、この長さが東樋上層遺構築造時のこの部分のの底幅であると考えられよう。また樋管の敷板の下には25本の角材が敷かれていた。これは樋管の沈下などを防ぐために敷かれた枕木であると思われる。角材は平均160cm程度の長さであった。

写真33 砂蓋に打たれた釘写真34 側板の接続部
砂蓋に打たれた釘側板の接続部

写真35 痛んだ砂蓋(1)写真36 痛んだ砂蓋(2)
痛んだ砂蓋(1)痛んだ砂蓋(2)

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5 排水部

排水部は東側に長さ364cmの角材が据えられていた。この角材は樋管の延長方向に対して25度外側に開いている。西側にも元来は角材が設置されていたと思われ、元来はハの字型に開いた平面形であると考えられる。角材の裏側にはこぶし大の石が敷き詰められていた。これより下流は工事のために掘削されており調査はできなかったが、東側の段丘の裾にそって北側に水路が続いていたと思われる。

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6 墨書

東樋上層遺構においてみられた墨書は、取水部の背面の板材の墨書、樋管の側板、樋管の砂蓋の3つの部位に残されていた。以下順にそれぞれの部位の墨書について述べていきたい。

取水部背面(下流側)には全部で6枚の板材が張られていた。図65-1〜-4はいずれもこの部分に書かれていた墨書である。すべて板材の長さ、幅、厚さが書かれている。完全に読むことができる-4には「厚さ二間、はゝ一尺一寸、あつさ二寸」と書かれているが、現状の板は幅、厚さの規模はほぼ合致するもの、長さは一間にも満たず墨書の内容には合わない。記載の内容の板を切断して、この部分に利用したものと思われる。

樋管の両側板には、側板の番号を示す墨書が記されていた。図65-5は取水部から数えて3枚目の西側板の墨書であるが、「西三つ也」と記されている。同様に4枚目の側板には「西かわ四つ也」と書かれている。東側の側板にも同じような内容の墨書がある(図65-13、-15)。後述する砂蓋の墨書と同じく、側板も事前に製材や切断を済ませて現地で組合せたと考えられる。先にも述べたように側板のなかには船板を再利用したと思われるものが存在した。図66-10、-11、-12はいずれも船材の転用材である西側の2番目の側板にかかれていた絵である。-10は魚、-11は四匹のねずみ、-12は犬などの動物である。この絵は落書であると思われるが、樋の築造時に描かれたものであるのか、あるいは船として利用されていた時に描かれたものであるのか確定はできない。ただ船材だけにこのような落書がみられたことから船の時にかかれたものである可能性が強いだろう。

砂蓋には設置の番号と思われる墨書が記されていた。東樋上層遺構の場合樋管は取水部のなかにまで延びていたが、この部分に3枚の砂蓋が使われている。この部分、および樋管部の取水部側から27枚目、つまり合計30枚については砂蓋の墨書による番号はみられない。28枚目に「○」(図66-17)、29枚目に「○一」(図66-18)という文字が記され、以下順に「二」「三」と数字が「卅」まで書かれている。文字の並びからみて28枚目の「○」は現在の零に対応する記号と思われる。「卅」の次は数字の頭に五をつけた「五一」という字が記されており、以下「五二」「五三」と続き、「五卅」で終わっている。五の次には「東」の字が頭についた数字が「東一」から「東卅」まで並んでいる。ついで「下」字と漢数字の組合せが砂蓋119からみられるが、排水部に近づくと砂蓋の痛みが激しく、砂蓋138より先は文字が読み取れない。これも30枚が一単位になると考えれば、砂蓋146が「下卅」となる。砂蓋147よりも下流側はさらに痛みがひどく、字の痕跡すら認められず、また元来の枚数も特定は困難であるが、長さから考えて、築造当初は排水部までに30枚の砂蓋があったと考えられる。これらの砂蓋の番号を示す墨書は砂蓋の東側のほぼ同じ場所に書かれていて、きわめて規則正しい配置を示しているが、それ以外にもいくつか墨書がみられる(図67)。25は砂蓋29に記された墨書で「さふた○一」と記されている。このことから近世史料などにみられる「砂蓋」が「さふた」と発音されており、樋管の蓋材であることがわかる。

砂蓋の番号墨書によってある程度樋管部の築造過程が推測できる。まずひとつ確かなのは樋管の材料がどこか別の場所で切断され、番号を付けられて、現地で組み立てられたことである。また砂蓋の墨書は30枚が一単位になっており、なんらかの作業分担があったことがわかる。「東」「下」「五」などの字の意味はまったく不明であるが、30枚ごとの単位は全部で5組あり、東樋上層遺構を作った樋大工の下に少なくとも5組以上の労働単位があったと思われる。

写真37 墨書(魚)写真38 墨書(ねずみ)
墨書(魚)墨書(ねずみ)

図65〜図67 東樋上層遺構墨書トレース図,図68〜図69 東樋上層遺構刻印トレース図jhiga-mk.pdf (PDFファイル 1.00MB)

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表8 樋管砂蓋の墨書
場所内容
取水部内(3枚)記載なし
砂蓋1〜27記載なし
砂蓋28
砂蓋29○一
砂蓋30〜58二〜卅
砂蓋59〜88五一〜五卅
砂蓋89〜118東一〜東卅
砂蓋119〜下一〜下卅
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7 刻印等

砂蓋の部分には多くの刻印が見られた(図6869)。東樋上層遺構の刻印の大半は、金属でつくられた印を槌で打って刻んだものと思われ、焼印ではない。また1、2、3、19などは彫刻刀のようなもので木に彫られたものである。14は針状のもので刻まれている。打たれた打たれた刻印は大きく分類して、分銅型のものと丸型のものに分類できる。中に字が書いてあるもの(4、11)もあるが、意味は不明である。また5のように的に矢があたった形のものもみられる。4と24のように異なった場所に異なった場所にあっても、もとの印は同じと思われるものもある。刻印は東樋上層遺構の施工に当たった職人集団や、あるいは材木の供給元を示す可能性があるが、残されたデータだけではそれを確定することは困難である。これらの刻印は砂蓋にまんべん無くみられたのではなく、取水口から墨書番号が始まるあたりに集中的にみられた。

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8 遺物

東樋上層遺構に直接随伴する遺物は見られなかったが、取水口付近の堆積物あるいは上層の樋管の埋土中からいくつか遺物が検出されている。図70の1、2は須恵器杯蓋でともに樋管の埋土中から検出されている。1は8分の1が残存しており、口径12.2cm、残存高2.9cm。天井部にヘラ削りが見られる。2は全体の3分の1が残存しており、口径10.6cm、残存高3.0cmであった。3も樋管埋土中からの出土で、須恵器杯身。4分の1が残存しており、口径9.6cm、器高3.3cm、受部径11.6cm、立ち上がり高0.6cmである。4は取水部付近の堆積物中から検出された染付皿。内面外周に雷文、底部に風景を描き、外面には唐草文を描く。口径13.6cm、器高3.5cmであった。近世中期の所産であろう。5は須恵器甕の口縁部。口径52.8cm、残存高17.2cm。

遺構の規模に比較して遺物の数は非常に少ない。1〜3の須恵器はいずれも田辺編年のTK209型式に含まれる須恵器であり、また4の磁器は近世のものである。東樋遺構を発掘するために北堤を開削したが、断面を観察すると須恵器の破片を多く観察することができた。これは堤体の材料として須恵器窯近くの土を利用したためであろう。今回検出された須恵器もこのようにして付近の土砂採取地から運ばれてきたものであると考えられ、東樋上層遺構の年代を決定する資料としての性格は持たないと思われる。

図70 東樋上層遺構出土遺物実測図jhiga-rm.pdf (PDFファイル 151KB)

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9 小結

先に述べたように、遺物から東樋上層遺構の年代を確定することはできない。東樋上層遺構は尺八樋ではないが、取水部が箱型の構造をもつことや、樋管の組み合わせ方のような構造面、あるいは鉄釘の形態などの技術面において東樋遺構西樋遺構と類似している。また今回検出された刻印の中には西樋遺構において検出されたものも見られる。よって東樋上層遺構の築造年代は慶長13年(1608)とみてよいだろう。奈良国立文化財研究所の光谷拓美氏に依頼し、砂蓋2点の伐採年代を年輪年代法によって鑑定していただいたところともに表皮は残っていなかったものの一番外の年輪の年代は1600年1554年という結果を得た。この結果からみても東樋上層は慶長の改修のときのものとみて問題はないだろう。享保5年(1720)に書かれた「狭山池一件之留書」(京都大学総合博物館所蔵杉山家旧蔵文書)には「東樋 此樋鉄之由申伝候、唯今ハ埋リ水之通路無御座候」という記載があり、近世中期にはすでに使用されず埋まっていたことがわかる。埋まった原因は元和6年(1620)5月21日の洪水に際しての被害によるものと考えられる。『狭山池改修史』が引用する「田中氏記録」には「元和六年六月洪水にて上未申烈風強堤浪打丑寅の方流失仕元狭山藩廓中西林之各字口腹之三ヶ所当時池也」という記事がある。これによってこの年の洪水で、堤の丑寅の方(北東)が流出したことがわかる。その被害は大きなもので、「氏朝自撰家譜」(北条家文書)によれば、この洪水で「クチバミ(クチバミ)池」(現在の御庭池)ができたという。その被害の場所から考えて、この元和6年の洪水によって東樋は洪水によって流されてきた砂に埋没し、機能を失ったと考えられよう。東樋上層遺構慶長13年(1608)から元和6年まで10年あまりしか使用されなかったことになる。

ついで東樋上層遺構の機能について考えたい。東樋上層遺構西樋遺構中樋遺構とは異なり一段のみの構造(底樋型)であり、また設置された位置も底のレベルが標高70.7mと他の樋よりもずいぶん高い(中樋は68.1m、西樋は66.6m)。このことから東樋が供給できる水量は他の樋よりも少なく、したがって灌漑範囲も狭かったものと思われる。東樋から北側に続く水路は、グランド造成や宅地建設に伴う改変が大きく、検出することができなかったが、地形から考えて段丘崖の裾にそって北流していたものと思われる。したがってその灌漑範囲は狭山池と太満池の間の低地の東部分に限定できるだろう。図71狭山池のダム工事が開始される以前の1987年に調査した池尻地区の溜池ごとの水掛りである。

この地域の農業用水は基本的には地形の制約を受け、南から北に流れるが、東側の段丘上に立地する御庭池から流れる水だけは水路のレベルや堰のたて方によって北から南にいわば逆流するようになっている。御庭池は先にも述べたように元和6年の水害によって段丘上が掘削されてできた池で、それに堤、樋などを整備して溜池としたものであるが、その成立事情、時期から考えて、この御庭池の灌漑範囲が概ね近世初頭の東樋の灌漑範囲であったと思われる。

図71 狭山池北側の水掛り図zu71.pdf (PDFファイル 177KB)

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所