狭山池 埋蔵文化財編page12 [第2章]
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III 東樋下層遺構

[遺構の概況][取水部][樋管][排水部][小結]
1 遺構の概況

上層遺構の発見後、発掘調査を実施するなかで上層遺構のほぼ直下にもう一本樋管が存在することが明らかになった。上層遺構の横の数箇所でトレンチを掘削したところ下層遺構上層遺構とほぼ同じ長さをもつことが判明した。そこで上層遺構の発掘調査終了後すぐにその取り上げ作業を実施し、下層遺構の発掘にとりかかった。下層遺構は全長72.65m。その大半をしめる樋管の長さが68.25mであった。遺構は上層遺構と同じく取水部・樋管・排水部に分けられる。また樋管は築造当初のものと、後世に延長された部分に分けられる。

下層遺構図72に明らかなように地山を幅150cm、深さ80〜100cmほど掘りこみその中に敷設されたものである。樋管は粘土系の土で埋めてあるが、これはもちろん樋管からの水漏れを防ぐためであろう。その上に北堤堤防の盛土を施しているが、この盛土は敷葉工法などを施した一番最初の堤体であることが南北方向の断面の観察から明らかである。したがってこの東樋下層遺構狭山池の築造時に布設された一番最初の樋管であるということができる。

図73は樋管と堤体断面の関係を示した図である。樋管1の部分が堤体のかさ上げに対応したものであることが読み取れよう。この層は、中樋付近でおこなった断面の調査と照合すると、その規模や敷葉工法などの特色から第10層に対応するものと考えられる。時代的には天平宝字6年(762)の改修時に堤防がかさ上げされ堤防基部が池内に大きく張り出した時に延長された部分であると考えられる。また図73の奈良時代の盛土層の下流側の部位では池の方向に堤体土が滑っている状態が観察できる。この部分は南東側の狭山遊園方面から北西方向に流れる小河川が流れていたことが断面からわかるが、盛土層はこの小河川をそのまま埋め立てて作られており、きわめて不安定な地盤であった。堤体の滑りがいつの段階で生じたのか明らかではないが、その遠因としてこのような地盤条件が想定できよう。

写真39 東樋下層・上層遺構と敷葉層の関係写真40 堤体に見られる滑り痕
東樋下層・上層遺構と敷葉層の関係堤体に見られる滑り痕

図72 東樋下層遺構東西断面図,図73 東樋下層遺構南北土層断面図,図74 東樋下層遺構取水部平立面図,図75 東樋下層遺構取水部断面見通し図,図76 樋管の接続方法,図77 樋管の概念図,図78 東樋下層遺構柱部分断面図,図79 東樋下層遺構排水部平立面図khiga-tr.pdf (PDFファイル 2.07MB)

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2 取水部

以下、各部位の細部の説明を行うが、樋管については取水部に近い側から樋管1樋管2のように呼称することとしたい。

下層取水部は樋管1を利用して作られており、もちろん樋管1と同時代のものである。樋管1は後に述べるように奈良時代にそれまでの樋管を延長したものである。築造時の樋管の上流側先端には当然取水部が存在したと思われるが、それを破壊し、その先に樋管を接続して取水部も作り直したものと思われる。したがってこの取水部は築造時のものではない。奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏に依頼して樋管1の伐採年代を年輪年代法によって鑑定していただいたところ、表皮は残存していなかったものの一番外側の年輪は西暦726年であるとの結果を得た。樋管1および取水部の年代を天平宝字6年とする推論にも一応の妥当性が認められよう。

取水部の平面形は長さ324cm、幅382cmの長方形でその中に樋管の先端部が180cm入りこんでいる。樋管は他の部分とおなじく丸太材を断面の3分の2ほどの場所で割り、内側を溝状にえぐったもので、えぐり部分の深さは32cm、幅は42cmである。ところが先端の30cmについてはえぐりが深さ22cm、幅28cmと浅く小さくなっている。樋管の先端に続いて4枚の板材が樋管と直行するように地面に並べられていた。この4枚の板は取水部の基礎の役割を果たすと考えられている。その上に2枚の板が40cmの間隔をあけて樋管と平行して敷かれていたが、両板とも角の部分において、幅16cm、長さ96cmの長方形に削られており、その部分に樋管の先端がはまる形となっている。この2枚の板のもう一方の先端には両方とも一辺13cmの正方形の穴があけられていた。この穴は下に敷かれた板材も貫通している。形状からみて柱をたてるために開けられた穴と考えられる。この2つの穴の外側には2枚の長い板材が立った状態で置かれていた。西側の板は厚さ17cm、長さ231cm、幅42cmで、直立していたが、東側の板は厚さ13cm、長さ300cm、幅45cmで内側に傾いた状態で出土した。これも築造時には当然直立していたのだろう。

また樋管の先端から104cmの場所(図74のB-B')においては樋管の下に長さ134cm、幅40cm、厚さ10cmの板材が敷かれており、両端に開けられた正方形の穴に2本の柱材が樋管を挟むように立てられていた。このような構造はこの樋管1において4箇所見られ、いずれも砂蓋を押さえこむための装置と見られる。この敷板および樋管のまわりには4本の柱材が立てられ、それにもたせかけるように外側から2枚の板材が立て掛けられていた。またこれと直行するように北側にも2枚の板材が樋管を挟んでたてられていた。こちらのほうはそれを支える柱材は存在しなかった。

東樋下層で検出したような構造では、明らかに池の水を取り入れることは不可能であり、なんらかの上部構造を想定する必要がある。この点については第3章で一応の復元を試みている。試案では材木9、10によって構成される長方形の部分が本来の取水部であり、5〜8の柱と1〜4の板材によって外側の長方形は樋の取水部を布設するために必要とされた土留めのための施設であると考えている。先述のように取水部の設置工事は天平宝字6年(762)に行われたと考えられる。とすれば7世紀初頭の狭山池築造時からは150年程度経っており、相当な土砂が堆積していたと考えられる。取水部設置のためには、工事部分の土砂を除去し、周囲の土砂が流入するのを防ぐ必要がある。土留矢板はそのために設置されたと考えられよう。

取水部に使われていた材木の中には明らかに転用材と思われるものが含まれていた。図74は取水部の平立面図であるが、1の板材は上面にほぞ穴が見られる。また2、3の板材は側面に溝状のえぐりがあり、扉のような構造である。さらに4〜7の柱材についてもほぞ穴があけられている。これらの穴や溝は取水部にとっては不要なものと思われ、建築材などを転用したものと考えられる。

写真41 取水部の平面形写真42 樋管1の先端部
取水部の平面形樋管1の先端部

写真43 砂蓋を押さえるための柱
砂蓋を押さえるための柱

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3 樋管

東樋下層遺構は全部で8本の樋管からなる。樋管はすべて丸太材を断面の3分の2程度のところで割り、内側をえぐったもので、直径は部位によって差があるが75cm程度のものが多い。樋管は少しずつ重なりながら接続するが、接続部分までの各樋管の長さは表9のとおりである。また樋管材の樹種は1のみがヒノキで28はコウヤマキであった。1のみ樹種が異なるのは先述のようにこれが奈良時代の改修工事にともなうものだからである。

また樋管の接続方法にもいくつかの類型が見られた。樋管12の接続部は2の先端部を切断し、そこに樋管1をつなぎ、接続部には樋管を挟むように2本の角材を立てている。また底部にも板材を挟んでいる(図76-1)。この接続法は1箇所しかみられない。樋管233445においては、両方の材の端部を削り、上流側の材が下流側にかぶさるようにして、両者をソケット状に組合わせる方法が採られている(図76-4、-6、-9)。これはいうまでもなく樋管内を流れる水がもれないための工夫であろう。樋管5678の合わせ目についても底部の接続方法は同じであるが、側面に両側から板材をたて、その外側から板材を水平方向にあてている。この板材については鉄釘で2本の樋管に接着している。樋管67の合わせ目部分には、たて方向の材が見られず、樋管同士を上流が下流の上になるように接合し、側面の両側から2本の板材をあて、それを鉄釘で樋管にとめる方法を採っている。

樋管の上には蓋材がのるが、蓋板の種類やその固定の仕方にも類型が見られる。蓋板1より上流においては、蓋板は幅30cm〜40cm、長さ70cmの板材を並べたものである。これを押さえつけるために角柱と直行する板材を敷設している。この板材も水圧が加われば上に浮き上がるために樋管の下に板材を敷きそこから2本の柱をたてて上方の板材とつないでいる。それぞれの接続部ではくさびなどで材を固定している。このような設備を3.7mごとに3箇所設けている。樋管2から5にかけては7枚もの長い板材を樋管の上に載せたものが見られたが、この蓋板の長さは表9の通りである。この部分の蓋板材も樋管と同じく端部を加工し、隣接する材との合わせ目においては上流側が下流側の下になるように接合している(図76-5、-7)。樋管58においては、短い材木を並べて蓋板としている。この点樋管1の部分と同様であるが、1で見られた蓋板を押さえつける工夫は見られない。またこの部分では蓋板のない部分が半分以上をしめている。残っている蓋板も破損が激しく、現在蓋板のない部分もかってはすべて存在したものと思われる。

なお樋管1の蓋板のなかに1ヶ所墨書が見られた。墨書は「廿四」と読めるがこの場所においては下層遺構の樋管は上層遺構と少しずれている。先に述べたように、上層遺構には墨書で砂蓋の番号が書かれているが、取水部に近い部分はそのような墨書は見られない。ところが下層に墨書がある部分の直上の上層遺構の砂蓋を取水部側から数えてみるとちょうど24枚目の板であった。以上の根拠によって、この墨書は奈良時代のものとは思われず、近世初頭の職人が心覚えに記した墨書と思われる。

また同じく樋管1の両側には3本ずつ計6本の掘建て柱がたてられていた。柱は東側の最も下流よりのものが最も高く、地表から269cmで、北側にいくほど低くなっている。図78は西側の最も上流側の柱部分の断面図であるが、当時の地盤を深さ120cmまで掘削して柱を建て、埋め戻したのち、今度は樋管を入れるための掘削が行われているのがわかる。埋め戻しの土の中にはこぶし大の礫が多く含まれていたが、これも柱を支えるためであろう。またいずれの柱も上流側に10度ほど傾いていた。先に述べたようにある時期に堤体は上流側にむかって滑っている。柱の傾きもこれと関係があるのではなかろうか。

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表9 東樋下層遺構の樋管材・蓋板材
樋管長さ(cm)樹 種
11,323ヒノキ
2995コウヤマキ
3725コウヤマキ
4992コウヤマキ
5572コウヤマキ
6865コウヤマキ
7830コウヤマキ
8522コウヤマキ
蓋板長さ(cm)樹 種
1338コウヤマキ
2438コウヤマキ
3401コウヤマキ
4402コウヤマキ
5419コウヤマキ
6401コウヤマキ
7325コウヤマキ

写真44 樋管7と8の接続写真45 樋管をつなぐ鉄釘
樋管7と8の接続樋管をつなぐ鉄釘

写真46 樋管1の柱と蓋板写真47 柱の基盤部
樋管1の柱と蓋板柱の基盤部

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4 排水部

樋管の下流側先端は桝形の構造となっており、水はこの部分に出されたのち水路によって下流に運ばれたものと思われる。桝形の大きさは南北310cm、東西220cmで、地面に埋め込まれた四本の丸太材とその外側に横たえられた丸太材によって構成されている。丸太の内部にはこぶし大の川原石が敷きつめられており、それに混じって長さ40cmほどの木材片が8本散乱していた。この材木は樋管としてもちいられたものと同じくヒノキ材で、その中の1本を奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏に依頼し年輪年代を測定していただいたところ、表皮は見られないものの一番外側の年輪は西暦590年という数値を得た。このことからこれらの木材片も元来は樋管の一部であると考えられよう。排水部の西側においても石敷が見られた。石敷の範囲は南北が540cm、東西が90cmで、樋管の西側に伸びていた。この石敷は樋管の東側には見られなかったことから、段丘の裾に設置された樋管の先端部が、谷側(西側)にすべることを防ぐ目的で設置されたものと考えられよう。

写真48 排水部で検出された樋管材
排水部で検出された樋管材

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5 小結

東樋下層遺構の築造された年代を土器などの出土遺物から判断することは困難であった。そこで奈良国立文化財研究所の光谷拓実氏に依頼し樋管材の年輪年代測定を実施した。その結果、樋管1をのぞく複数の樋管では表皮が残存しており、伐採年代は西暦616年の春から夏にかけてという結果を得た。先にも述べたように東樋下層遺構は沖積層を掘削して埋設されており、その上に北堤が築かれている。堤の層には中樋付近の堤体断面の観察調査において最初の堤体の特色であると判断された敷葉工法が見られることから、東樋下層遺構狭山池築造時の遺構であることが確実である。この樋の伐採年代が西暦616年であることが判明したため、狭山池の築造年代もその直後であることが確実となった。水中で使用される樋の材木は建築材などとは異なり、伐採直後でも使用できる。現在でも溜池の工事は、農閑期で雨も少ない冬に行われることが多く、少し想像をたくましくすれば616年の冬には狭山池の築造工事がおこなわれたと考えることができよう。

東樋下層遺構の発掘によって長年の謎であった狭山池の築造年代は7世紀初頭にほぼ限定されることとなった。西暦616年推古天皇24年にあたる。狭山池の築造は記紀には崇神天皇や垂仁天皇の時代のこととして記載されているが、今後はその記事の意味について問われなければならないだろう。また東樋遺構は全長がほぼ残存していたために、7世紀の樋管の構造や築堤技術についても多くの情報を与えてくれた。築造当初の取水部こそ残存しなかったが、奈良時代の取水施設は一部が検出され、他の出土例と比較すればその復元も可能となる。この樋管は天平宝字の改修以後いつまで使用されたのかは、発掘成果だけでは知ることはできない。また灌漑範囲についても接続する水路を検出できなかったため不明というしかない。ただ地形から考えて、東樋上層と同様に水路は段丘崖の裾を縫うように北に流れていたことが推定できよう。狭山池の北側約1kmの位置には現在太満池が所在する。太満池は狭山池中樋から流れ出した水が一旦すべてそこに落ち、下流に分配される重要な溜池である。『続日本紀』天平四年(732)十二月条には狭山下池の築造記事が見られるが、この狭山下池は現在の太満池であると考えられる。したがって7世紀初頭には東樋下層遺構から流れ出した水は太満池よりもさらに北側まで流れていた可能性が強いだろう。中樋西樋については度重なる改修工事のために狭山池築造当初の樋を確かめるすべもないが、これら2つの樋は設置されたレベルが東樋よりも数m低く、水の有効利用の点からも築造当初から存在していた可能性が強いだろう。東樋下層遺構は太満池の築造によって灌漑範囲が狭まり、相対的にその重要性が低下したものと考えられる。

東樋下層遺構は、上層遺構のほぼ真下に埋設されていた。これは単なる偶然ではなく、東樋所在箇所の地形的な条件によるものと思われる。東樋が設置された場所は狭山池の東岸を画する段丘のちょうど裾の部分にあたる。したがって発掘のために開削された部分の西側断面は堤体の盛土の状況を示すが、東側の断面は自然の段丘層の上に盛土がのったものとなっている。段丘層は沖積層よりも強固であり、安定した地盤を求めて場所を検討した結果、約千年の時間を経て二つの樋が上下に重なって設置される結果となったのである。ちなみに今回のダム化工事においても上層下層の東樋遺構が検出されたのとまったく同じ場所に取水のための新しい樋が設置されている。

写真49 東樋遺構と新しい取水塔
東樋遺構と新しい取水塔

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所