狭山池 埋蔵文化財編page14 [第2章]
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第3節 池周囲の調査

I 東岸部の調査

[調査の経過][基本層序と調査区内の自然地形][遺構と遺物][小結]
1 調査の経過

狭山池調査事務所は1987年に池内部の遺物散布状況などの調査を実施し、1989年以降は池の周辺部に機械掘削によってトレンチを入れ、遺構・遺物の所在把握に努めた。その結果、本書で報告する須恵器窯などを確認したが、以下報告する東岸部の諸遺構もこのトレンチ調査の結果検出されたものである。トレンチ調査の結果、狭山遊園地の東側において南北方向の大溝などが検出され、須恵器などの出土遺物もあったため、トレンチ調査の結果や地形などを考慮し、約1,200m2の調査区を設定し、発掘調査を実施した。発掘調査は1990年11月から、1991年2月8日まで実施した。また1991年3月17日に現地説明会を実施した。

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2 基本層序と調査区内の自然地形

調査区は狭山遊園地の西側に広がる微高地の全域を発掘することを目的に設定した。微高地は調査区の北側ほど東西幅が狭くなり、西側においては落ち込みを確認した。微高地はほぼ正方形の形状であるが、北側と南側で入江状の地形がみられる。この二つの入江を結ぶように後述する大溝が南北方向に掘削されているが、北側の入江状の地形については堆積物があまりに厚く、掘削が困難であったため、航空写真で確認するだけで発掘は行わなかった。また調査区南側においては、池の東岸を画するコンクリート擁壁から東側に傾斜した地形があり、この部分からも土坑などの遺構が検出された。南側の入江状の地形については、段丘層まで検出することを目標としたが、池の堆積物が非常に軟弱であったため、ついにそれを果たせず、途中までの掘削に止めた。

つぎに微高地部分の断面を図144のA-A'において実測したのが図145である。これをもとにこの部分の基本層序について説明することとしたい。微高地の東側を画する大溝の西肩のレベルはT.P. 79.7mである。段丘面はこの地点から緩やかに西側に傾斜している。大溝から西へ9mの間はほとんど堆積物がみられず、ごく最近の遺物を含む砂質土がみられるのみである。他の場所では古墳時代の建物跡土坑等、多くの遺構が検出され、遺構中からは遺物も多く検出されているにもかかわらず、大溝から西へ9mの区間では、遺物包含層すらも見られないことは不自然なことと思われる。また大溝からこの地点までは、9mで0.9m標高が下がっているが、この地点から西に9mのところにある旧川岸までの傾斜は9mで1.7m下がっており、大溝から西へ9m地点が変化点となっている。以上のことからこの地点以東については後世に地山の土取が行われた可能性が強い。そして大溝西肩から19mの地点において段丘は急激に落ち込んでいる。この落ち込みのレベル(77.1m)よりも上の堆積物はいずれも層厚が薄くまた砂を主体とするものである。これらは池岸に波によって吹き寄せられた堆積物層と考えられ、時期的にもそれほど古いものとは考えられない。この落ち込みの中の堆積物は大きく3層に分類できる。最上層は青灰色粘土で、この層は池形成以後、静水によって形成されたものと考えられる。その下は茶色混じりの砂層である。この砂層からは古墳時代後期〜江戸期の土器が細片ではあるが出土している。この層は池形成以後のものであることは混入した土器から明白であるが、それが池中の砂州のようなものの名残なのか、また池が一時的に決壊した時などに水流により形成されたものなのかは判然としない。その下の暗灰色をベースにする砂層には、明確なラミナが観察できる。三田村宗樹氏に現地でご教示いただいた結果、この砂層はかなり速い水流によってできたものであり、しかも攻撃斜面であるとのことであった。この砂層からはかなり摩耗した状態の弥生土器が出土している。日下雅義氏の研究によると註1)、この地点は氏の推定された築造直後の狭山池東岸にあたる。これに今回の発掘結果を合わせると、この砂層より下の層は、狭山池築造以前この地を流れていた旧天野川によって形成されたものであり、この落ち込みは、旧天野川、および築造時の狭山池の東岸と考えるのが妥当であろう。また微高地以南の傾斜地の地層については、調査地の最南端の東西断面において観察したが、堆積はいずれも池形成以後の堆積層と思われた。この地域においては岸の下端ラインから西へ12m程度のところで地形が極端に落ち込み入江状の地形を形成している。この岸下端ラインと入江状地形の間の南北約50m、東西12mの帯状の傾斜地にも後述するように土坑等の多くの遺構がみられた。

写真68 東岸部全景(南から)
東岸部全景(南から)

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3 遺構と遺物
[大溝][建物跡][石組溝][土坑]

東岸部においては多くの遺構を検出することができた。以下、順にその概要を記す。また遺物についてはその総数もさほど多くはないので遺構ごとに説明を加えることとしたい。

図144 東岸部遺構平面図, 図145 東岸部東西断面図, 図146 大溝東西断面図, 図147 建物跡平面図togan-tr.pdf (PDFファイル 918KB)
図148 東岸部出土遺物実測図togan-rm.pdf (PDFファイル 251KB)


(1)大溝

微高地を南北に断ち切るように、大規模なを検出している。最大幅4.8m、調査地内における長さは48mであった。方向は磁北から西へ21度の角度をもつ、ほぼ直線の大溝である。断面はV字型で、深さは最大3.1mである。また中の堆積物の層序は図146に示す通りである。先にも述べたようにこのの北端・南端は入江状の落ち込みに連続していた。狭山池は築造以後数次の拡張工事が行われており、特に岸部については改変が著しい。この落ち込みも後世の掘削に伴うものと考えられる。したがって大溝は南北にさらに伸びていたものと思われる。

さて、このの時期であるが、1989年に実施した試掘調査では底部から50cm程度上から図148-12の須恵器杯蓋が出土している。他にも何点か出土しているが、いずれも細片であり時期を議論するには不十分である。12の須恵器田辺昭三氏の編年によれば註2)TK217型式に含まれる。また1988年に実施した試掘調査では大溝の底部に近いところからTK43型式の須恵器杯身を検出している(図148-1、2、3)。以上のことよりこの大溝は古墳時代の後期に掘削され、比較的短期間にその機能を失い埋められたものと考えられる。また断面形がV字型を呈しており、深さも非常に深いため農耕用の灌漑水路とは考えられない。この調査の終了後実施された東樋遺構の調査の結果などを考慮すれば、この大溝狭山池の築造に伴って、中樋を設置するために旧天野川を一時東側に移動させた一種のバイパス水路ではないかと考えられる。検出された大溝は南北が切られているが、調査区内においてはは定規で引いたように真っすぐ掘削されていた。仮にこの直線を北に延長した場合、北側はほぼ東樋遺構の位置に達する。東樋遺構はこのバイパスを利用して敷設された可能性がある。

写真69 大溝全景(北から)写真70 大溝の内部(南から)
大溝全景(北から)大溝の内部(南から)

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(2)建物跡

大溝のすぐ西で小規模な竪穴式の建物跡を検出した。この竪穴は長径3.2m、短径2.2mの非常に小規模なもので周辺に12箇所の柱穴が配置されている。また北側には幅70cm、長さ2.0mのが続いており、この部分が入口部と考えられる。竪穴部の中央は深さ10cm程度に浅く掘られており、中に焼土、炭などが入っていた。これはと考えられる。竪穴部、入口部の底面からは遺物が出土している。大部分は須恵器であるが、1点だけ土師器がふくまれていた。出土した須恵器図148の-4〜-11、-13〜-15に示す通りである。またこれらの出土状況は図147に示す通りである。は竪穴部、入口部の全域にわたって分布しており、杯蓋は竪穴部の特にの周辺部、また杯身は竪穴の縁辺部付近に多く分布していた。出土須恵器田辺昭三氏の編年によればTK43型式を中心とするものであり、この建物の年代も6世紀末頃とするのが妥当であろう。またこの建物の機能を考える上でヒントを与える遺物が図148-15の須恵器甕の破片である。このの外部には須恵器窯の窯体が熔着していた。このような不良品は一般には流通しないものと考えるのが妥当であり、須恵器生産に従事していた工人にその利用者も限定されていたと考えられる。よってこの建物狭山池周辺の須恵器窯において作業に従事していた工人らのものであった可能性が強い。さらにこの建物の規模の小ささや、周辺の柱穴の状態からは非常に仮設的な建物であったことが想像できる。以上のことより現在の段階においては、この建物狭山池周辺の須恵器生産者の休憩所、あるいは作業所であったと考えている。

写真71 建物跡の炉付近
建物跡の炉付近

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(3)石組溝

調査区はセクションA-A'の箇所においてもっとも標高が高くなっているが、その箇所から南北に流れる2本の石組溝が検出されている。南側の石組溝11989年に実施した試掘調査に際しても検出している。長さ11m、最大幅4.4m、底部は北から南に傾斜している。この付近の地山面は大きな礫が多く含まれているが、この遺構はその面を最大0.5m掘り下げたものである。底部には掘削の際に出土したと思われる礫を並べてある。北側の石組溝2は北から南に流れるである。最大幅5m、調査区内における長さ9mである。このの埋土の中にも多くの礫が入っていたがこれは溝1ほど整然としたものではない。双方のとも遺物の混入がなかった。先述した通りセクション付近においては地山が掘削されていることが予想されるが、その際このの一部も破壊された可能性が強い。本来は連続した遺構であったことが推定される。

写真72 石組溝1写真73 石組溝2
石組溝1石組溝2

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(4)土坑

土坑1) 石組溝の南に所在。直径1.5m、深さ0.8mの井戸状の遺構であるが、遺物は検出されなかった。

土坑2) 大溝の南東に所在。長径3.8m、短径3.0mの楕円形の土坑である。深さは最大で40cmであるが傾斜地に掘られているため東側を深く掘っている。埋土中から須恵器の細片が出土している。なお土坑2の南側には深さ20cm以下の浅い土坑がたくさんみられるが、出土遺物もなく、遺構の性格も明かではない。近世以降の土採りに伴う遺構かと思われる。

写真74 土坑1写真75 土坑2周辺の遺構(南から)
土坑1土坑2周辺の遺構(南から)

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4 小結

東岸部の調査によって解明された事実は多い。特に古墳時代の大溝建物跡を確認したことの意義は大きいと考えられる。大溝はこれまでわが国で発掘されている古墳時代のとしては最大規模のものである。その掘削には相当な労働力が投入されたことが推測される。当然のことながら狭山池の築造との関連が注目されるが、今のところその機能として狭山池築造の際のバイパス水路が考えられよう。自然河川を堤でせきとめ、樋を設置して溜池を築造するためには、自然河川をいったん付け替える必要がある。今回の調査区の北側および南側は狭山池築造後、池面積を拡大させるためにあらたに掘削されたために、この大溝の延長を推定できないのは残念であるが、他にこれだけ大規模なを掘削する積極的な理由も考えられずバイパス水路の可能性をここでは示しておきたい。

また建物跡は小規模なものとはいえ、大阪狭山市内におけるはじめての古墳時代の建物跡であり、また遺物から須恵器の工人との関連も予想され今後の研究の良好な資料となるものであろう。

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所