狭山池における当初より予定された埋蔵文化財発掘調査は1995年をもってほぼ終了したが、以下報告する西除崩壊部は本格的な発掘調査に先立って行った分布調査、試掘調査などでは確認されず、ダム工事の進捗に伴って発見され、工事業者の連絡を受けて調査に着手した遺構である。調査は1996年11月に実施した。
調査地は狭山池西除部の東側斜面の裾部に所在していた。この部分は地盤が不安定で狭山池のなかでも過去の決壊がもっとも顕著であった場所である。西除には今回のダム工事においても常用、非常用の二つの洪水吐が設置される予定であるが、遺構はこの工事の過程で、斜面を削るなかで発見された。西除の東側斜面においては工事のためにまず表土の掘削が行われたが、この段階で幅20m、高さ13mにもおよぶ崩落痕が目視で確認された。この崩落痕は勿論土をいれて補修されていたが、現地は垂直に近い斜面であるため、工事によってこの埋土が撤去されないことには文化財調査は不可能であった。埋土が撤去され西除の川床部と同じレベルに達したとの連絡を受け、現地におもむいたところ、斜面の裾部において板石を組み合わせて管状にしたものを検出した。これを石組1と呼称する。板石は花崗岩で今回の工事まで西除の底石として貼られていたものによく似ていたが、西除では近世に度々工事が行われており、近世文書などにも工事についてはそれまであった石材を再利用することが記されているので、これらの石材がいつのものなのかは特定ができない。板材は唯一完全な形で残っていたものの長さが122cm、厚さ4cmであった。他の欠損している石材も元来はおおむねこのような大きさのものであったと思われる。板材は土を掘削し底面、側面に貼りつけるようにしてこれを置き、蓋は他の板材に直交するように置かれていた。また内部にはこぶし大の川原石が充填されていた。管状の構造の内部は、上辺が55cm、下辺は30cm、高さは40cmであった。また蓋の石材のうち一つは真ん中で折れていた。上方から強い土圧がかかっていたことが想像できる。この石管状の遺構は総長が2.1mで終わっていた。当初さらに奥に続いていたのかは検出状況からは推定できない。この石管状遺構の性格は内部に川原石が充填されていたことから暗渠であることは間違いがない。斜面の崩落が生じ、それに盛土をする過程で湧き水の処理のために設けられた仮設的な施設と思われる。
この遺構の実測、写真撮影などを終え、工事上の必要もあり奥の盛土の撤去を進めたところ、崩落部底部の規模は幅16m、深さ14mであることが判明した。底部のもっとも奥の部分においてやはり石材が集中して出土した(石組2)。この石材は先のものとは異なり管状の構成をとらず、散在した形で検出された。ただ乱雑ながら底部外周の彎曲にあわせて2列に並んでおり、元来は管状に配列されていた可能性はある。石材が分布するのは東西19m、南北24mの範囲であった。この部分において崩落部の斜面はほぼ垂直であり、場所によってはオーバーハングした状況であった。こちらの石材も排水用として利用されていた可能性が強いが、同時に法面の保護のための土留の役割を果たしていたとも考えられる。計15基の石材が検出され、もっとも長いものは長さ181cm、幅46cm、厚さ5cmであった。石材はいずれも花崗岩である。遺構の性格は明確でないがやはり崩落部復旧工事のための仮設的設備であることは確かであろう。
| 写真76 石組1 | 写真77 石組2 |
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狭山池西除は度々崩壊を起こしている。今回の調査によって崩壊と復旧工事の実態を知ることができたが、はたして災害、および復旧の時期はいつなのであろうか。狭山池調査事務所で進めている古文書、絵図などの調査の知見と照合すると、今のところ一番可能性が高いのは近世後期の文化年間(1804〜1817)の改修工事の痕跡であると考えられる。この工事は享和2年(1802)の大雨のため崩壊した部分の改修工事である。水下村から度々改修の願いが出されているが、取り上げられず、最終的には文化11年(1814)になってようやく本格的な工事が施工されている。その間には一時しのぎ的な仮普請が何度か繰り返されたようである。文化4年(1807)の狭山池西除ケ略絵図にはちょうど今回の調査地付近に大きな斜面崩壊が描かれている。ただしこの絵図では崩壊部の外周に土俵を積み土留としているが、調査では土俵は見つかっていない。今回検出された暗渠にせよ、絵図に描かれた土俵にせよ仮設的な施工であり、最終的には土を入れて崩壊箇所を復旧する手段が採られたと思われる。ただ一度崩壊した場所は、その後も崩壊を繰り返す可能性が強いため、遺構と史料の照合には今少し検討が必要であろう。