狭山池 埋蔵文化財編page16 [第2章]
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第4節 須恵器窯の調査

I 狭山池1号窯

[調査の経過][層序][遺構][出土遺物][小結]
1 調査の経過

狭山池北堤の北側において1992年に調査を実施した池尻遺跡(2)水田遺構は、狭山池北堤の直下に位置する。この水田遺構の上面を被覆する黒色の灰土層は、北堤堤体裾から北側へと広がっていた。その分布域は東西約30mの幅で、北堤裾から約20m北方の箇所まで達していた。平成4年度水田遺構の畦畔を検出する過程でこの灰土層の掘削を行い、コンテナ約50箱分の須恵器を取り上げた。水田遺構における灰土の広がりは、調査区の南西域に集中していたため、その南側の北堤斜面に須恵器窯跡が存在することは確実と思われた。

1993年7月18日に、須恵器窯跡の検出を目的として北堤の北側斜面においてフラックスゲート型磁力計による磁気探査を実施した。しかし堤体盛土が予想以上に厚かったことと、後世の人工物や廃棄物による磁気的な障害が大きかったことなどから、窯跡の領域を限定するに至らなかった。

1993年の冬季に灰土層が収束する箇所の延長線上の北堤斜面において、バックホーで試掘溝を掘削し窯跡の範囲確定を試みた。その結果、堤体裾のコンクリートブロックが積まれていたN点(X=-165924.7885、Y=-40872.6360)から南へ約6m付近の場所を上端とした堤盛土の掘込みが認められ、それに裾をカットされた状態で、現況堤体地表面から1.6m〜1.9mの深さに灰原らしき灰土層の堆積を確認した。

そこでこの試掘溝を東西にのばし灰原の東西端と思われる箇所まで調査区を拡大し、灰土層上面で南北約9m、東西約16mの第1次調査区を設定し、1993年9月1日から同年11月30日まで第1次調査を実施した。なお、第1次調査の時点では北堤の頂部に市道が通っていたため、安全上の理由から、N点から南へ約10mの地点までしか掘削をすることができなかった。

第1次調査完了後、市道がダム化工事のために通行止めとなった後の1994年2月1日から、前回の調査地点以南における灰原・窯体の有無の確認、さらには第1次調査で灰原の下層に位置することが明かとなった第1次堤体の状況等を確認するために、バックホーによる試掘調査を開始した。第1次調査の際に最も厚い灰土の堆積が確認されたN-S軸(S点:X=-165936.8512、Y=-40877.7851)にそって灰土層上面を追いかけ、N点から南へ約15mの地点までで第1次堤体盛土の上面を確認することができた。この試掘調査結果に従って、第1次調査区全域を含めた南北最大14.0m・東西最大17.4mの第2次調査区を設定し、1994年2月14日から同年3月31日まで第2次調査を実施した。

なお、この調査において検出された須恵器窯を狭山池1号窯と呼称する。

写真78 狭山池1号窯と北堤
狭山池1号窯と北堤

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2 層序

北堤北側斜面の表土をめくるとN点よりS点方向へ約7mの地点以南には、標高74.2m以上の箇所に灰褐色粘土層(土層4、以下土層番号のみを略記)が盛土されている。その下層には、N点より約4m地点から約14m地点までの間に、淡灰褐色礫砂土の盛土層(5)が存在する。この層は標高71.4m〜72.8m以上の場所に分布し、径15cm程度の円礫を多く含む。この盛土層は、N-S軸から約30m東方の北堤北斜面で試掘調査を行った際にもその東端が確認されており、第1次堤体が遺存する箇所で広範囲に存在するものと思われる。N点から約6m南方の地点から堤体北裾までの間で、この淡灰褐色礫砂土層上面を掘り込み面とした攪乱がおこなわれたようであり、コンクリート塊の混じった暗灰褐色砂質土層(2)が盛土されていた。おそらくは、堤体裾のコンクリート擁壁およびコンクリートブロックの設置工に伴う攪乱であろう。

淡灰褐色礫砂土層の下層で明黄色砂質土層(8)と明青灰色砂礫土層(7)がそれぞれ約10cm、最大30cmの厚みで存在し、その直下が灰土層の上面となる。灰土層は標高71.2m〜72.9mで、それぞれ5cm〜20cm程度の厚みの橙色の焼土を含んだ暗灰色灰土と、それを含まない暗灰色灰土・黄褐色系砂質土と灰黄色系砂質土が互層になって、北向きに緩やかに傾斜しながら堆積している。この灰土を多量に含む互層(9〜38)は2次的な堆積である可能性を残すものの、これを仮に上層灰原と呼称して記述を進めたい。

上層灰原のN-S軸付近での南端はN点から南へ約11mの地点で、それ以南では第1次堤体の表面が露出する。N点から約4mの地点で、前述の堤体裾部工事によって上層灰原は削平されており、この箇所が堤部分の調査で確認できる上層灰原の北限となる。

N点から約9m地点以北では、上層灰原の下層に褐灰色砂質土(39)・淡青灰色砂質土(40)が最大17cmの厚さで分布し、さらにその下層に最大厚が30cmの黒色灰土層(41)が遺存する。この黒色灰土層は、砂質土などの混入が全く認められず、包含する須恵器破片の遺存状況が比較的良好であるために、窯の操業に伴い随時廃棄作業が行われたことによって形成された灰土層、つまり後世の2次移動を受けていない灰原であると判断できる。この黒色灰土層を中層灰原と呼称する。中層灰原は標高70.9m〜72.0mの間で緩やかな傾斜で堆積し、N点から約9mでその南端に達する。また北側はN点から約3.5mで攪乱を受けて途切れている。

中層灰原の下層には、部分的に厚さ5cm程度の淡青灰色砂質土の間層(42)を挟んで暗橙色灰土層(43)が遺存する。この灰土層は中層灰原と同様の遺存状況を残すため灰原と判断される。この暗橙色灰土層を下層灰原と呼称する。下層灰原は標高69.2m〜71.4mの間で緩やかな傾斜で堆積している。N点から3.5m南方の地点以北は、第1次堤体の裾部分にあたり、上面は水平方向から約40度の急傾斜となっている。この箇所は前述の攪乱を受けているために、現状で10cm以下の厚みしかないものの、当初は50cm以上のかなり厚い堆積であったものと推測され、その上面の傾斜はもっと緩やかであったと思われる。N点から8.5m南方の地点が下層灰原の南端となるがこの箇所は第1次堤体が再度立ち上がる傾斜変換点に接している。下層灰原は調査区北端付近で攪乱による削平を受けながらも調査区北側へと延びていくが、平面的にみた場合、その分布は散在的で、かつその北端は後世の削平を受けているため、水田遺構の上面を被覆する灰土層が下層灰原と同一層であるとの確証はない。

水田遺構の上面を被覆する灰土層は、南北約20m、東西約30mの範囲で確認できる。最も厚みのある部位で35cm程度の厚さであるが、薄い部位では2cm程度である。この層は暗灰色灰土を主体とするが、橙色の焼土のみが堆積する箇所もある。灰土の色や質、砂質土との混合の程度を観察する限りでは、堤体斜面部分の上層灰原の灰土が水田遺構上面の灰土層と最も近似しており、水田遺構の上面で検出された灰土層は上層灰原に含まれるものと考えられる。

N点の南方約2.5m〜8.5mの間では、下層灰原の直下に黄褐色系砂質土(44・45・46)と暗青灰色砂礫土(47)が最大40cmの厚さで堆積している。この2層の色調の相異は、狭山池の水による還元箇所によるものである。この2層は堤体盛土としては締まりが悪く、上方から崩落流出した土である可能性が強い。この層の上面が後述のような灰原堆積以前の遺構面となっている。

この土層の直下に第1次堤体の裾部上面が遺存する。N-S軸付近の第1次堤体盛土は、N点から約2m南方の地点から認められる。この箇所における標高は69.5mである。N点から約3m離れた地点で裾から約80cmの高さまで立ち上がり、そこから約5m南方の地点までは緩やかな傾斜面となる。この箇所における標高は70.9mを計測する。この地点を傾斜変換点として、水平から約36度の急傾斜でN点から約11m地点(標高72.9m)に達する。この地点から傾斜角は約24度の緩やかなものとなり、N点から約14m地点での標高は74.3mとなる。そこからさらに緩やかな傾斜で上昇し、第1次堤体の頂部に達するものと思われる。最頂部は今次調査区の域外にあるため推測の域を脱しえないが、中樋付近で実施した堤体断面調査では、第1次堤体の高さは5.4m、標高は74.4mであった。第1次堤体頂部に嵩上げする形で盛土されている第2次堤体の最頂部の標高は75.0mである。狭山池1号窯灰原の検出位置は、堤体断面調査位置から約70m東に離れているが、第1次堤体頂部の標高はさほど異なるものではないと推定できる。

次に、流出土下層の第1次堤体盛土と考えられる土層について記述する。本稿で述べている第1次堤体が、中樋筋で実施された堤体保存工事および東樋遺構調査で確認された第1次堤体と完全に同一のものかどうかは他の調査成果を詳細に検討する必要があるが、以下の理由から同一の堤体盛土であると判断している。中樋付近の堤体断面においても、東樋の堤体断面においても、堤体盛土の腹付工事のほとんどは池の内側部分である堤体南側斜面で実施されたことが判明しており、北側斜面では第1次堤体の直上に、土質のまったく異なった後世の堤体盛土がのっていた。よって、狭山池1号窯灰原の箇所においても、後世の大規模な腹付工事は想定できず、表土の直下において、敷葉工法を用いた第1次堤体が確認されることは妥当であるといえよう。

調査区内では、基本的に第1次堤体の裾部分における盛土は堤体の中心から外側へ、つまり、北側斜面では南から北へと土盛りされている。N点から約9m以南では標高約72m以下において青灰色系と灰褐色系の粘土・シルト・砂質土が交互に、ほぼ水平に盛土されており、そのすべての層内には葉や枝などの植物遺体が多量に含まれている(59〜64)。この盛土は敷葉工法がきわめて丹念になされた築第1次堤体の盛土であるといえよう。

この第1次堤体の盛土を上方および側方から完全に被覆する盛土が、砂粒が細かくさらさらとして均質な青灰色砂質土層(58)である。この青灰色砂質土はN点より約3m地点以南に盛土されており、N点から約6m地点までは標高69.5m〜69.7mの高さで平坦に近い盛土がなされている。この箇所の層の厚みは約8cmと薄く、これを剥ぐと直下に第1次堤体築堤以前の河川堆積層と推定される暗灰色砂質土(65)が認められ、さらにその下層には同様の堆積層と考えられる暗灰青色砂質土層(66)が遺存する。この2層中からは細かい繊維状の植物遺体が多量に検出される。北堤が築堤される以前には本調査区近辺は旧天野川の氾濫原で湿地状であったと推定されており註1)、その植生環境を復元する上で、この植物遺体は興味深い資料である。この旧地表面を被覆する青灰色砂質土層(58)は、前述の第1次堤体の盛土を被覆するために、その上面がN点から約6mの地点以南で平均約38度の傾斜角で立ち上がり、N点から約11m地点で約25度に傾斜を変え、N点から約14.5mの地点(標高74.2m)までその存在が確認できる。N点から約11m地点ではこの層の厚みは約1.1mで、調査区より南側においては、それ以上の厚みをもって盛土されている可能性が高い。なお、この層中においても植物遺体が腐食したと思われる細かい層が無数に観察されることから、前述の敷葉工法が採用されているものと考えられる。この青灰色砂質土層の上面で、N点から約7.5m地点以南においては暗青灰色砂質土層(57)が厚さ最大15cmで盛土されている。この層とその下層とは土質がほぼ同じであるが、植物遺体腐食土の含有の度合いが土層(58)に比して高い。これはこの土層(57)が表土層となって一定期間が経過したことを示すものか、あるいはこの層を土盛する際に土層(58)よりも念入りな敷葉工法が行われたことを示すかのどちらかであろう。この砂質土層の直上には、明灰色粘土層が10cm程度の厚さで、N点から約9m以南の箇所に盛土されている。この層の上面は長期間第1次堤体の表土面であった可能性が高く、雨水などによって浸食を受けやすい砂質土層をこの粘土で被覆したと想定するのが妥当なところであろう。

土層(57)・土層(58)の上面が急傾斜をなしている盛土裾部分を外側からさらに被覆している土層が、青灰色・灰青色・灰色系の粘土層(49〜55)である。第1次堤体の最も裾となるN点より約2m地点(標高69.5m)の箇所から、N点より約8.5m地点(標高71.2m)の箇所までの間に、土層(57)・(58)の急落する裾部分を腹付するようにこれらの粘土層は盛土されており、この部位の第1次堤体上面はテラス状の平坦面となっている。

図153 狭山池1号窯と池尻遺跡(2)の位置関係,図155〜図158 狭山池1号窯灰原平面図si1-tr.pdf (PDFファイル 4.31MB)
図154 狭山池1号窯灰原土層断面図si1-tr2.pdf (PDFファイル 0.97MB)

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3 遺構
[上層灰原][中層灰原][下層灰原][下層灰原直下の遺構][第1次堤体]
(1)上層灰原

2cm〜35cm程度の厚みの暗灰色灰土と橙色焼土からなる。堤体斜面部分においてはこれらの灰土と焼土が、灰黄色系砂質土と互層をなし、水田遺構上面ではこれらの灰土と焼土が遺構埋土となっている。上層灰原の規模は、堤体斜面部分では南北約7m(現存長)・東西約17m、また水田跡部分では南北約20m・東西約30mである。

標高73m付近に位置する上層灰原の南端ラインは、第1次堤体にほぼ平行して検出された。上層灰原上面は南から北に傾斜し、最高部と最低部の比高差は2m近くある。上層灰原中の各灰土層が水平に堆積しているにもかかわらず、上層灰原の上面が斜面をなす状況は、操業に伴う廃棄によって堆積したとすればいかにも不自然である。上層灰原の上面は、後世の削平を受けている可能性が高い。

また、ほぼ単一の灰土のみで形成されている中層灰原下層灰原とは異なり、上層灰原が灰土と砂質土の互層で形成されていることは、堤体斜面上方に遺存した窯体部分が崩落して堆積したためであるのか、あるいは窯の操業に伴う灰土の遺棄の単位によるものなのかは、2次堆積であることを決定づける後世の遺物の混入が確認できないために判断できない。

なお、上層灰原からはコンテナ約90箱分の須恵器が出土し、蓋杯高杯短頸壺長頸壺平瓶提瓶横瓶穿孔壺ハソウ器台などの器種が認められる。

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(2)中層灰原

黒色灰土の単一層で形成される中層灰原は、最も厚い部分で約30cmである。N-S軸以西における中層灰原の上面南端は、標高71.75m〜72.00m付近の堤体斜面のコンターラインにほぼ平行して検出され、同軸以東の南端は標高72.50m付近の堤体斜面にまでその堆積が及ぶ。

中層灰原の規模は、東西約17m・南北5.9m(現存長)で、第1次堤体斜面に沿って調査区の西側へと続いている。当初、上方のコンクリート擁壁を除去することができなかったために、その直下の部位については擁壁解体時に確認調査を行ったが、灰原は遺存せず、土層47の上面を検出した。

中層灰原第1次堤体斜面裾部のテラス状平坦面に堆積しているため、その上面は南側から北側へ緩く傾斜しているが、比高差は1m以内に収まっている。ただし中層灰原の北端は攪乱によって欠失しており、これより以北の堆積状況は不明である。

この灰原から出土した須恵器の総量はコンテナ約20箱分を数える。その器種には蓋杯高杯ハソウ短頸壺長頸壺平瓶器台などが確認できる。

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(3)下層灰原

焼土を多く含む暗橙色灰土の単一層で形成される下層灰原は、最も厚く堆積する箇所で約30cmの厚みを有する。その規模は東西17m、南北8.5mを測る。

下層灰原から出土した須恵器の総量はコンテナ約20箱分である。その器種には蓋杯高杯短頸壺平瓶長頸壺提瓶横瓶がある。

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(4)下層灰原直下の遺構

土層44〜47の黄褐色系砂質土・暗青灰色砂礫土からなる流出土の上面において、図157のようなピット群を検出した。ピット群はN点から約8m地点以北の流出土によって形成されている平坦面と、その北側の第1次堤体裾を含む傾斜面のみに分布しており、N点から約8m地点以南の第1次堤体斜面上においては検出できなかった。

ピットには直径30cm〜50cm程度のものと、直径30cm未満のものとの2種類がある。前者の径の大きいものは、N-S軸より西側において、斜面に平行して平坦面上に3点、斜面上に6点が並んで検出された。強いて復元するならば、南北方向1間、東西方向5間の掘立柱の構築物がこの箇所にあったと推定される。南北方向が1間にとどまることと、あえて傾斜面に柱を立てていることからテラス状の平坦面を堤体裾よりも北側に延長するための桟敷状の構築物、または仮小屋のような建物が想定できる。なお、このピット群の埋土は下層灰原の灰土である。よって、灰土堆積段階には、この構築物は柱を抜いて撤去もしくは破壊されていたと考えられる。おそらくは、窯の操業にかかわる作業上、必要とされた施設であろう。また、直径30cm未満のピットはN-S軸以東の平坦面上に集中して検出された。杭痕と考えられるこのピットの埋土は、やはり下層灰原の灰土層であった。

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(5)第1次堤体

狭山池北堤第1次堤体の盛土状況については、層序の項で述べたとおりである。今回の調査区内における第1次堤体の裾は、狭山池1号窯灰原によって被覆されていたために築堤当初の状態をきわめて良好に保存していたと判断できる。また灰原の及ばない標高73m以上の第1次堤体についても、土層を観察する限り、特に顕著な削平は考えられない。よって、調査区よりも南側の第1次堤体頂部までの間は、ほぼこの傾斜で斜面が続いているものと考えられる。堤体保存工事の断面調査結果から、第1次堤体頂部の標高は74.4m程度であると予想され、部分的に高い箇所が存在するとしても、標高75.0mを大きく上回ることはないであろう。とすれば、堤体斜面の調査区南端における第1次堤体上面から堤体頂部までの比高差は2m未満となり、1号窯灰原の南側上方に、窯体が堤体斜面に直交する形で築かれていた可能性はきわめて低い。これらの状況から、狭山池1号窯窯体構築状況として次の2案が想定できる。

  1. 堤体斜面部の灰原の南東方向もしくは南西方向で、第1次堤体斜面に斜行して構築された窯体
  2. 灰原の南側直上において、第1次堤体頂部を池側の南斜面までほぼ貫通するような、半地下式構造の窯体

実際の1号窯の構造が上記のいずれであるかは、今回の調査で痕跡すら確認できなかったために断定しがたいが、いずれにしても、限定された傾斜面で窯体の長さを最大限に確保するため、焼成部の床面傾斜角度は非常に緩やかなものであったと推測される。

ところで、調査区内における第1次堤体の形態は、図158のような傾斜面をなしている。標高70.75m〜71.50mのコンターラインの間にみられるテラス状の平坦面は、土層49〜55の粘土系の盛土によって形成されている。この平坦面は調査区から約20m東方の堤体斜面に設定したトレンチでの土層断面調査では確認できなかった。この箇所では第1次堤体斜面の傾斜はどの場所においてもほぼ同一であった。このようなテラス状の堤体裾部は、中樋筋の堤体断面調査・東樋遺構発掘調査・堤体本体工事の立会調査でも確認できなかったため、1号窯灰原付近のみで確認できる構造であるといえる。第1次堤体の構築から1号窯操業までの期間に、池の水を堰き止める機能上、この部位に盛土をする必然性はまったく考えられない。おそらくは、窯の操業に伴って必要となった盛土であろう。つまり、その上面に設置された仮設的な性格の強い建物と関連性をもった平坦面と考えている。

写真79 下層灰原遺物検出状況写真80 下層灰原直下のピット群
下層灰原遺物検出状況下層灰原直下のピット群

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4 出土遺物
[下層灰原出土遺物][中層灰原出土遺物][上層灰原出土遺物][灰原表面採集遺物]

灰原から出土した須恵器片の総量は、コンテナ約130箱に達した。本項では、平成4年度調査において水田遺構上面の上層灰原から出土した遺物と、平成5年度調査において第1次堤体斜面上面の下層灰原中層灰原上層灰原から出土した遺物のうち、図化を行うことができた遺物をすべて報告する。なお、1号窯出土遺物は2点の特筆すべき性質を有している。1点は、本窯が狭山池第1次堤体斜面に造営されたものであるため、本窯で生産された須恵器狭山池築造時期の下限を示す資料であると理解できることである。もう1点は、第1次堤体の下層から検出された東樋下層遺構の構築時期が、その部材に使用されているコウヤマキの伐採年代からA.D.616年と判明している註2)ことから、その上層に層位する第1次堤体の形成時期と本窯の操業開始時期がA.D.616年以後に限定されることである。つまり、東樋下層遺構と本窯の出土遺物から狭山池の築造時期の上限と下限が特定されるとともに、本窯で生産された須恵器にはA.D.616年以後の絶対年代が与えられることとなる。本窯の須恵器は須恵器型式の実年代を考える上できわめて有用性の高い資料であるといえよう。

以下、各灰原層ごとに出土した須恵器の概要を述べる。なお、各個別の遺物観察結果については表12表15の遺物観察表を参照されたい。

図159〜図193 狭山池1号窯灰原出土遺物si1-rm.pdf (PDFファイル 27.2MB)

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(1)下層灰原出土遺物 (図159〜162・図178〜182、図版70〜72、表12)

下層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は126点を数える。器種別の個体数は次の通り。杯H身37点・杯H蓋41点・杯G身3点・杯G蓋2点・有蓋高杯1点・長脚無蓋高杯(杯部)4点・長脚無蓋高杯(脚部)3点・短脚無蓋高杯6点・短頸壺6点・短頸壺蓋1点・平瓶4点・長頸壺(胴部)2点・長頸壺(口頸部)2点・提瓶1点・横瓶1点・14点。

杯H身の口径平均値は10.6cm、杯H蓋の口径平均値は11.3cmである。第3章で述べるように、1号窯下層灰原杯H身の法量は、図306のような数値分布を示しており、口径9.0cm〜10.6cm・器高2.2cm〜3.4cmの範囲にほとんどの個体が集中している。45のように、口径14.6cmを測るものも少数含まれている。杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図309のような数値分布を示す。杯H身の外面調整は、14点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、19点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、3点が底部全域を未調整とする。杯H蓋の外面調整は、16点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、24点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とし、1点が天井部全域を未調整とする。

杯G身の口径は23が10.4cm、24が10.6cm、82が10.6cmを測る。杯G蓋の口径(外径)は21が12.1cm、22が12.0cmを測る。杯G蓋のかえりは、21・22とも口縁端部以下に突出している。杯G身の外面調整は、3点とも底部中央から回転ヘラ削り調整を施している。

長脚無蓋高杯は、88が脚部に長方形スカシを2段2方向に有している。89・90は脚部に長方形スカシを有していない。

短頸壺は体部最大径が11cm〜15cm程度の小ぶりなものが多く、肩部が下外方へ緩やかに下る形態のものと、肩部が外下方へ強く張り出す形態のものの両者が存在する。

平瓶は、体部が外下方に張り出して肩部が角張る形態のもの107と、体部が下外方に比較的緩やかに張り出して肩部が丸みをもつもの106・109とがある。

長頸壺110・111の体部外面にめぐらされている沈線はいずれも非常に鈍いものであり、体部外面にある刺突文も不規則な間隔で施文されている。

は、口頸部が大型のもののうち、565・566・567・568・569は口縁部直下の沈線の下方に櫛描き斜行沈線文を施文する。570・571・572・573・574は沈線のみを頸部外面にめぐらす。口頸部が小型のもの561・562・563・564の頸部外面は無文である。

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(2)中層灰原出土遺物 (図163〜165・図183、図版73〜76、表13)

中層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は102点を数える。その器種別の個体数は次の通り。

杯H身39点・杯H蓋42点・杯G蓋1点・1点・長脚無蓋高杯(脚部)4点・有蓋高杯蓋2点・短頸壺4点・短頸壺蓋1点・長頸壺1点・平瓶2点・1点・3点・器台1点。

杯H身の口径平均値は10.6cm、杯H蓋の口径平均値は11.5cmである。第3章に述べるように、1号窯中層灰原杯H身の法量は、図307のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図310のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、16点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、21点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、2点が底部全域を未調整とする。杯H蓋の外面調整は、15点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、24点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とし、3点が天井部全域を未調整とする。

杯G蓋の口径(外径)は195が11.0cmを測り、かえりは口縁端部以下に突出し、外面には底部中央から回転ヘラ削り調整を施している。

長脚無蓋高杯は、198・200が脚部に長方形スカシを2段2方向に有している。199・201は脚部に長方形スカシを有していない。

短頸壺は体部最大径が12cm〜16cm程度の比較的小ぶりなものが多く、肩部が下外方へ緩やかに下る形態のものと、肩部が外下方へ強く張り出す形態のものの両者が存在する。

平瓶は、体部が外下方に張り出して肩部が角張る形態のものである。

長頸壺202の体部外面にめぐらされている沈線はいずれも鈍いもので、下層灰原出土資料の110に近似した形態のものである。

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(3)上層灰原出土遺物 (図166〜175・図183〜190、図版77〜85、表14)

上層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は340点を数える。その器種別の個体数は次の通り。

杯H身120点・杯H蓋106点・杯G身4点・杯G蓋2点・2点・長脚無蓋高杯(杯部)4点・長脚無蓋高杯(脚部)12点・短脚無蓋高杯18点・短頸壺7点・短頸壺蓋4点・長頸壺(胴部)2点・長頸壺(口頸部)1点・平瓶3点・提瓶10点・横瓶1点・穿孔壺2点・ハソウ1点・38点・器台3点。

杯H身の口径平均値は10.3cm、杯H蓋の口径平均値は11.4cmである。第3章に述べるように、1号窯上層灰原杯H身の法量は、図308のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図311のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、39点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、50点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、28点が底部全域を未調整とする。杯H蓋の外面調整は、44点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、50点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とし、12点が天井部全域を未調整とする。

杯G身の口径は234が12.0cm、235が11.0cm、236が11.6cm、237が9.6cmを測る。杯G蓋の口径(外径)は233が11.9cm、409が11.6cmを測る。杯G蓋のかえりは、233・409とも口縁端部以下に突出している。杯G身の外面調整は、4点とも底部中央から回転ヘラ削り調整を施している。

長脚無蓋高杯は439・440・444・508の4点が杯部を遺存し、456・457・458・459・492・494・496・497・498・499・500・507の11点が脚部のみを遺存している。439・440・444の杯底体部境界と底部上方にめぐらす稜の間は無文である。496・497・499・500は脚部に2段3方向の長方形スカシを有しており、507は脚部に2段2方向に長方形スカシを有している。457は脚部に2段2方向のスリット状スカシを不完全に切り込んでいる。456・458・459・492・494・498は脚部に長方形スカシを有していない。

短脚無蓋高杯は441・442・443・446・447・448・449・451・452・453・490・491・495のような脚部にスカシをあけないタイプのものと、445・450・454・493のように円孔スカシを脚部に有するもの、455のように長方形スカシを有するタイプのものとがある。

短頸壺は体部最大径が10cm〜16cm程度の比較的小ぶりなものが多い。肩部が下外方へ緩やかに下る形態のもの469・484・485と、肩部が下外方へ方へ強く張り出す形態のものの両者が存在する。

長頸壺479・489は似通った形態である。479の体部外面にめぐらされている沈線は鈍く、その間の刺突文は不規則な間隔で施文されている。また、489の体部外面にめぐらされている沈線の間に施文されている刺突文の間隔は不規則ではないものの、上下端の高さが部位によって異なるため、やや乱雑な感を受ける。

平瓶480・481・482は、体部が下外方に比較的緩やかに張り出して肩部が丸みをもつ形態のものである。

ハソウ477の頸部は細く、頸部と肩部が緩やかなラインで接続されているため基部が明瞭でなく、肩部も緩やかに外下方へ下る。

は、口頸部が大型のもの580・581・587・588・590・591・593・594・595・597・598・600・602・605・606・608・611・623・625・626は口縁部直下の沈線の下方に櫛描き斜行沈線文を施文する。589・592・596・599・607・609・612・624は口縁部直下の沈線の下方に波状文を施文する。601・603・604は沈線のみを頸部外面にめぐらす。口頸部が小型のもの584・585・586・620・621・622の頸部外面は無文である。

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(4)灰原表面採集遺物 (図190、図版82、表15)

灰原が遺存していた堤体斜面の表土層上面に散布していた遺物、および試掘溝内から出土した遺物をここに掲載した。なお、水田遺構を被覆していた部位の上層灰原における表面採集遺物は、池尻遺跡(2)の項に掲載しており、ここには含めていない。

杯H身杯H蓋杯G身杯G蓋無蓋高杯短頸壺提瓶等の須恵器と、中世の羽釜が出土している。なお、522の杯G身は底部中央部分を欠損しているため、無蓋高杯の杯部である可能性も残すが、ここではとして扱った。

杯H身の口径平均値は10.3cm、杯H蓋の口径平均値は11.2cmである。

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5 小結

今回の調査で、河川氾濫原の直上に北堤第1次堤体が築かれ、さらに、その北側斜面において造営された須恵器窯からの排出物によって形成された灰原が、第1次堤体斜面およびその北側に広がる水田跡に堆積している状況が確認できた。つまり、第1次堤体斜面における須恵器窯本体の遺存状況を確認するまでもなく、第1次堤体の盛土が7世紀前半須恵器窯灰原の下層に層位しているという、重要な層序関係を確認することができたのである。このことによって、狭山池の築造時期の下限を、考古学的なデータからおさえることが可能になった。第1次堤体よりも南側において、堤の痕跡らしきものはまったく検出されておらず、第1次堤体狭山池築造当初の堤であることは間違いない註1)。すなわち、狭山池の築造年代は、1号窯灰原須恵器が示す時期よりも下降することはなく、第1次堤体の下層に層位する東樋下層遺構樋管材の伐採年代A.D.616年註2)より古くなることもありえない。

また以上のことから、1号窯灰原から出土した須恵器は、A.D.616年以後に生産されたことが確実である。北堤斜面を被覆する灰原のうち、1号窯上層灰原は2次堆積による灰土層である可能性を残すために別に扱う方が良いと思われるが、下層灰原中層灰原窯体操業時に廃棄されたままで遺存すると考えられる。よって、灰原資料とはいえ、下層灰原中層灰原から出土した須恵器は、生産年代の上限が特定可能な数少ない窯跡資料であり、陶邑窯跡群の須恵器編年を考察するに際してきわめて重要な資料であるといえよう。

本窯の灰原から出土した須恵器は、下層灰原出土資料・中層灰原出土資料・上層灰原出土資料とも、の蓋身逆転期のいわゆるTK217型式の範疇に含まれるものである。第3章で検証しているように、杯H身の法量はTG10-I集中域内に、たちあがりの形態はHI1分布域・TG10-I分布域内に集中する数値を示している。このことから、1号窯の資料はTK217型式第1類註4)に分類できるといえよう。また、無蓋高杯には、長脚2段の脚部をもつものと短脚の脚部をもつものとが認められ、このうち長脚2段の高杯には、長方形またはスリット状スカシのあるものと、スカシのないものとが存在する。これはTG10-I東池尻1号窯の窯跡資料と同様の高杯を生産していたものと理解でき、TK217型式第1類に分類される資料と同様の器種バリエーションを有しているといえよう。

また、1号窯の出土資料の中では、杯Gの出土点数がきわめて少なく、の生産割合のほとんどを杯Hが占めている。TK217型式第2類に分類されるひつ池西窯註5)の出土点数が、杯H:杯G=2:1となるのに対して、第1類に分類される本窯や東池尻1号窯における杯Gの出土数の少なさは非常に特徴的である。加えて、1号窯杯G身の口径は10cm〜11cmを測る。杯Gの法量と形態、杯H杯Gの出土数量比からみれば、消費地遺跡であるならば、まさしく飛鳥Iと判断される資料であろう。

本窯の調査によって、狭山池1号窯須恵器がTK217型式第1類に分類される資料であり、この型式の須恵器が生産されていた年代はA.D.616年以後であるとの指標を得た。狭山池の築造時期についても、北堤第1次堤体の構築年代の上限をA.D.616年に、その構築年代の下限をTK217型式第1類が陶邑で生産されていた時期に求めることができ、その間に狭山池築造年を限定することができる。1号窯発掘調査と東樋遺構発掘調査と北堤堤体保存に伴う断面観察の3調査の成果によって、狭山池築造時期の問題に対して非常に明瞭な解答を得ることができたといえよう。

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所