1990年に実施した狭山池2号窯灰原発掘調査の際、その南端部分において、2号窯灰原とは明らかに異なる黒色の灰土層を確認した。この灰土層は、2号窯下層灰原の下層約25cmに所在していた。2号窯灰原が灰土中に砂質土を含むのに対して、この灰土層は砂質土を含まず、分布域もまったく異なることから、2号窯とは別の窯体の操業に伴う灰原であると判断し発掘調査を行うこととなった。この新規に確認した須恵器窯を、狭山池3号窯と呼称する。発掘調査は1992年1月21日から同年3月4日まで実施した。
狭山池2号窯灰原の発掘調査の際に試掘溝内で確認した狭山池3号窯灰原の規模は、東西約7m、南北約6mであった。この時に出土した須恵器の器種には、杯蓋・杯身・高杯・提瓶・短頸壺・甕等が認められ、狭いトレンチにもかかわらず、その数量はコンテナバット12箱分にも及んだ。
灰原の分布状況から、窯本体が近い場所に遺存する可能性が強いと判断し、灰原の完掘はもとより、窯体部分の検出も念頭において発掘調査を開始した。このため、狭山池東堤コンクリート擁壁の除去と堤体盛土の掘削を行い、窯体の遺存が想定される中位段丘崖の検出を試みた。堤体盛土をバックホーで掘削したが、盛土は東側の宅地部分にまで及んでおり、中位段丘崖を検出することはできなかった。灰原から遠くない箇所に窯の構築が可能な段丘崖があり、そこに窯体が遺存する可能性はきわめて高いと想定されるが、住宅などが存在しており、窯体の検出は断念することとなった。また当初の予想よりも東側に中位段丘崖が位置することは、後述する狭山池東岸の微地形の状況から納得できる。以上の通り、窯体部分の検出は果たせなかったので、調査の目的を灰原の全容を把握することに限定した。
3号窯灰原は、2号窯灰原に南接して存在し、狭山池東岸に所在する狭山遊園とその北側にある住宅地との境界の西側にあたる。3号窯灰原の北端の一部は2号窯灰原によって間層を介して被覆される。3号窯灰原は堤体盛土最下層の直下で、堤体西端から約2m東方の地点よりその堆積がみられる。堤体付近では一部露出する箇所が認められるほど浅いところに灰原が遺存するが、池の堆積物と思われる褐色砂質土・青灰色シルト等の土層がみられる箇所では、最深部で地表面から約80cmの深さのところに遺存する。調査区内における灰原上面の標高は76.75m〜78.0mを測る。
灰原を最も細かく分層する場合、作業者が運搬した1回分の炭灰を最小単位として検出することが理論的には可能である。しかし、これを断面のみでなく平面および立体的に検出する作業は現実的にはきわめて困難である。今回の調査では、土質の似通った最小単位の灰土層を一括する層をもって1層の灰原とみなした。
3号窯灰原は大別して上下2層に明瞭に分層される。上層は暗灰橙色の灰土層で、最も厚い箇所で約20cmを測ることができる。これを上層灰原と呼称する。下層は黒色の灰土層で、最も厚い箇所で約40cmの堆積がみられる。これを下層灰原と呼称する。なお、土層断面における灰原の西端は掘り込みによってカットされている。この掘り込みの埋土は近世末期以降の遺物を包含する。なお、下層灰原は地山面に堆積しているのではなく、段丘崖上部より流入したと考えられる灰青色砂質土・淡黄色砂質土の上面に堆積している註8)。この崩土層の厚さは堤体直下で約1m、灰原西端直下で約60cmを測る。
この崩土層を削除すると地山面があらわれる。この層が中位段丘礫層である。中位段丘礫層は、堤体直下および灰原西端直下において約1.2mの厚さを有するが、調査区の西側に設定した試掘溝では確認できないことから、調査区東端より西へ約15mの地点で中位段丘礫層は消滅しているものと思われる。
さらに、この中位段丘礫層の直下には、極めて堅い明黄色砂質土層が確認された。この層の上面は緩やかに西方へ下っていき、調査区東端で標高76.0mを測り、調査区東端から49m地点で標高72.0mを測る。49m地点に傾斜変換点があり、きつい傾斜でさらに西方へ落ち込む。なお、西側試掘溝内において、明黄色砂質土層上面にみられる暗青灰色シルトおよび暗褐色砂質土は、水流や池による堆積土ではなく、何らかの作用によって流入した層であろう。この暗青灰色シルト層は、3号窯灰原をカットする落ち込み内の埋土と同層であり、近世末期以降の流入土である。
| 写真83 狭山池3号窯灰原断面 |
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暗灰橙色灰土より形成される上層灰原は、東西約10.5m・南北約7mの東西方向に長い形状を呈しており、最も厚いところで約20cmの堆積がみられた。しかし、厚さが約20cmに達するのは中央部付近(横断土層図作成箇所より南北幅3m程度)のみで、その他の箇所での厚さは10cm以下であった。
灰原南端から西端にかけての箇所は、掘り込みによってカットされており、この埋土中からは近世末期以降の陶器片等が検出された。3号窯調査区のある狭山池東岸は狭山遊園と宅地の境界を中心に緩く東方へえぐれ込んでいるが、昭和初期の狭山池改修以前は、当該地は谷地形であったようで、東側と南側に斜面があり、現在よりもかなり奥まった地形であったようである(図207)。灰原をカットする掘り込みがこの谷地形の北端に相当するのであろうか。また、図207に記されているようなコンターラインであったならば、現在の東堤より西を掘削しても中位段丘崖に届くはずがなく、今回の調査で窯体を確認できないことも当然であろう。
上層灰原の上面では微地形については、狭山池2号窯側から続く南北方向のコンターラインが中央部付近で南東方向へ向きを変えている。また、中央部南側でやや平坦な面が形成されている。
包含する須恵器は細片が多く、灰原の中央付近に集中する傾向が認められた。
黒色灰土層から成る下層灰原は、東西約11m、南北長は東側で約7mを西側で3〜4mを測り、東西に長く西側でやや狭くなる形状を呈している。厚さは最大約40cmであるが、堤体盛土直下および南側の調査区東端付近では厚さ10cmもなく、やはり上層灰原と同様に、中央部付近が非常に厚く堆積している。灰原南端から西端にかけては、上面からの掘り込みによって削平を受けており、窯体操業時の灰原の端をおさえることはできない。
下層灰原の上面では、上層灰原上面でみられた南北方向のコンターラインが中央部付近で南東方向に向きを変える傾向がより強くみられる。これは、中央部付近における灰土の堆積が、南側のそれに比して非常に厚いものであることによるためで、77.0m付近のコンターラインは中央部付近で急角度に屈曲している。またこのことによって、中央部南側ではやや平坦な面が形成されている。
下層灰原を掘削する過程において、本窯操業時の作業者が運搬・廃棄した1回分の炭灰に相当すると思われる灰土の集まりが、その上面および下面に橙色焼土を含むことにより、部分的ながらも確認できた。しかし、この単位を個別に検出する作業を灰原の全域にわたって行うことができなかったため、黒色灰土層を単一層と認識することとした。
包含する須恵器は、上層灰原では細片が多いのに比べて、完形もしくはそれに近い残存を示すものが多く、その出土量も上層灰原と比較して多い。先に述べた灰土塊がいくつか集まって土器溜まりのような出土状態をみせる箇所が、不明確ながらも中央部付近においてみることができた。
| 写真84 下層灰原遺物出土状況 |
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下層灰原を完全に掘削すると、灰青色砂質土・淡黄色砂質土からなる土層の上面が現れる。この客土層上面においては、傾斜面は南西に向いている。このため、コンターラインは南東方向へ走っており、調査区北端付近で緩やかに南北方向へ向かう。下層灰原と上層灰原の上面における中央部付近のコンターラインの張り出しは、傾斜面において土層断面軸方向に沿って最も厚く堆積したことに起因するものである。
標高77.0m〜77.25m付近は、中央より南側でやや平坦な面を有するが、ここで径約20cm、深さ10cm〜20cmのピットを5ヶ所で検出した。ピットの埋土はいずれも下層灰原の黒色灰土であり、これらのピットは灰原が形成される以前の遺構であることが確認できた。遺構に伴う遺物は確認できなかった。ピットは3つと2つが斜面に沿って直線的に並んでいる。これらの遺構の上部構造として、柵列のようなものを想定できるが、これが灰原形成直前に機能していたことを考えると窯の操業に伴う何らかの施設であろう。
| 写真85 灰原層以前のピット列 |
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1990年・1991年の調査において、狭山池3号窯灰原から出土した須恵器の総量は、コンテナ約90箱に達した。本項には、実測が可能であった遺物をすべて掲載した。
以下、各灰原層ごとに出土した須恵器の概要を述べる。なお、各個別の遺物観察結果については表20〜表22の遺物観察表を参照されたい。
上層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は20点である。図化をおこなった器種別の個体数は次の通り。
杯H身の口径平均値は11.8cm、杯H蓋の口径平均値は13.5cmである。杯H身の法量は、図313のような数値分布を示している。
提瓶12は肩部に下方へ屈曲する一対の把手を付す。
口頸部が大型の甕、121・122・123は頸部沈線の間に櫛描き斜行沈線文を施文する。口頸部が小型のもの116・117・118・119・120の頸部外面は無文である。
下層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は126点を数える。図化をおこなった器種別の個体数は次の通り。
杯H身の口径平均値は12.6cm、杯H蓋の口径平均値は14.2cmである。杯H身の法量は、図313のような数値分布を示している。口径は11.0cm〜14.0cmの範囲に、器高は3.5cm〜4.5cmの範囲に集中しているが、口径が11.0cm未満のものと14.5cm以上のものを含んでいる。上層灰原のそれがこの分布範囲を超えた数値を示す個体を含んでいないのと対照的である。杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図315のような数値分布を示している。
長脚無蓋高杯は、47・58・59・60が脚部に2段2方向の長方形スカシを、48が脚部に2段3方向の長方形スカシを有している。
短頸壺は50・51・63の体部最大径は13.6cmと小ぶりで、53・54・64・65の体部最大径は17.2cm〜21.0cmとやや大きい。
広口壺55は頸部外面にカキ目調整を施し、66は肩部と体部外面にカキ目調整を施している。
提瓶は、肩部が遺存している67・69・72には、下方に屈曲する左右一対の把手が付されている。
口頸部が大型の甕、125・144・145・146・149・150・151は頸部沈線の間に櫛描き斜行沈線文を施文する。口頸部が小型のもの126・127・128・129・130・131・132・133・134・135・136・137・141・142・143・147・148・152・153・154・155・157・158・159・161・162の頸部外面は無文である。138は頸部外面に2条の鈍い沈線をめぐらす。156は頸部外面に櫛描き斜行沈線文を施文する。口頸部が直口の139・140の頸部外面は無文である。大甕160は頸部外面の沈線の間に櫛描き斜行沈線文を施文する。
下層灰原中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は58点を数える。図化をおこなった器種別の個体数は次の通り。
杯H身の口径平均値は12.6cm、杯H蓋の口径平均値は13.6cmである。
長脚無蓋高杯106は、2段1方向の長方形スカシを有している。
短頸壺104の体部最大径は15.3cm、114の体部最大径は23.5cmを測る。
提瓶105には、下方に屈曲する左右一対の把手が付されている。
口頸部が大型の甕178は頸部沈線の間に櫛描き斜行沈線文を施文する。口頸部が小型のもの110・127・128・129・130・131・132・133・134・135・136・137・141・142・143・147・148・152・153・163・164・165・166・167・168・169・170・171・172・173・174・175・176・177の頸部外面は無文である。
狭山池3号窯上層灰原から出土した須恵器は細片のものが多く、その総量も下層灰原の出土量の3分の1程度にとどまる。これは下層灰原が黒色灰土から成るのに対して、上層灰原は暗灰橙色灰土で形成されており、上層灰原は炭灰層というよりも、むしろ焼土混じりの灰土層と表現するほうが的確であるということと関係している。下層灰原は窯体で焼成を行った後に掻き出した純粋な炭灰層で、上層灰原は床面の還元層の下、および壁面の還元層の外側にみられる酸化層をも含んで形成されたものであると思われる。上層灰原は、窯体から炭灰等の廃棄物を除去した後の床・壁の補修を予想した清掃、もしくは窯の廃絶後の破壊によって形成された層であるために、下層灰原とはまったく異なった堆積および遺物の残存状態を呈しているのである。
第3章で述べているように、狭山池3号窯の杯身の法量は概ねTK43集中域の範囲内におさまる数値を示しているが、たちあがりの角度がTK43号窯のそれよりも内傾気味である。よって、本窯で生産された須恵器はTK43型式〜TK209型式の範疇に含まれるものと考えられよう。