狭山池 埋蔵文化財編page32 [第2章]
Back Next
[bottom]

V 東池尻1号窯

[調査の経過][遺構][遺物][小結]
1 調査の経過

旧天野川右岸の中位段丘崖には、狭山池2号窯狭山池3号窯狭山池4号窯太満池南窯註9)太満池北窯註10)などのTK43型式・TK209型式・TK217型式の須恵器を産出した窯跡が多くみられる。遺物の散布などから、この崖面では狭山池北堤から下池までの範囲で2基の窯跡の存在が想定されていた註11)

『狭山町史』第1巻本文編註12)(以後、『町史』と略記)では、下池の南西の1基は「狭山池北方の窯」と記述され、「大規模な灰原」が遺存していたとされる。現在、当該地点は完全に宅地化し、段丘崖もコンクリート擁壁で覆われている。灰原の遺存が想定される崖下の平坦面にも盛土がなされており、須恵器片すら採集できない状態である。『町史』では森編年III期に分類されている。また、狭山池北堤の北側の1基は「狭山池北方の窯」と『町史』に記述され、「窯壁片、土器片散乱」とある。これが今回発掘調査を実施した窯跡であると考えられる。『町史』編纂時には露出していた作土面も、調査前には青少年グラウンドの盛土によって厚く覆われていたため、須恵器片の散布は確認できない状態であった。

今回の調査では、窯体および灰原が遺存すると考えられる箇所、大阪狭山市青少年グラウンドの東端部分および、里道を含むグラウンド東側の竹林内の崖面の約1,600m2で発掘調査を実施した。なお、前述の通り本調査区内にその遺存が想定される窯跡は『町史』で「狭山池北方の窯」と呼称されているが、下池の南西に位置する窯との混同が予想されるため、本窯の灰原部分が位置している箇所の住居表示「東池尻」を採って、東池尻1号窯と呼称する。

事前発掘調査は、1992年9月14日から同年10月16日まで実施した。この事前発掘で、灰原の散布域を特定し、発掘調査区の設定をおこなった。窯体部分の範囲確認調査を含めた本発掘調査は、1992年10月19日から1993年2月5日まで実施した。

調査にあたっては中位段丘崖の裾に相当するグラウンド東端において、南北約42m、東西2.6m〜2.8mの試掘溝(中央トレンチ)を設定した。この試掘溝内における土層断面観察の結果、南北約29mの範囲で厚さ10cm〜40cmの灰土層と厚さ10cm〜20cmの有機物層を検出した。この結果をもとに、今回の開発工事によって影響の及ぶ範囲内で、南北約40m・東西約9mの調査区を設定し、バックホーでグラウンドの整地層と旧作土を掘削した。この後、主として人力掘削を行い、2次堆積によると思われる灰土層直上で平面図を作成、写真撮影を行い、これを掘削した。つぎに、中央トレンチ西側では灰土層が検出されなかったため、直に有機物層上面を検出し、中央トレンチ東側では灰土層上面と調査区南端箇所で有機物層上面を検出した。これを精査の後、平面図および土層断面図を作成し、写真撮影を行った。この調査範囲を第1調査区と呼称する。この段階で、青少年グラウンド部分で行われていた池尻遺跡(2)の発掘調査とあわせて、12月12日に現地説明会を実施した。現地説明会終了の後、灰原および有機物層の掘削を行って遺物を取り上げ、地山面の直上まで完掘した。

つぎに、里道部分のフェンスとコンクリート舗装を撤去し、里道東側の崖下までの平坦面において東西方向に長さ約13m、幅約0.8mの試掘溝を設定して、灰土層の東端を確認した。この範囲確認の成果に基づいて、里道部分で約100m2、南北約24m、東西約4mの拡張調査区を設定した。この調査区では、バックホーと人力で2次堆積灰土層直上まで掘削を行い、平面図を作成、写真撮影を行った。引き続き、灰土層と有機物層の直上まで人力掘削を行い、平面図および土層断面図を作成、写真撮影を行った後、遺物取り上げと並行して同層の掘削を行い、地山面を検出した。

また、これらの作業と同時に、東側の崖部分では、斜面下と斜面中腹および段丘上に南北方向の試掘溝を設定して人力掘削を行い、窯体の確認に努めた。その結果、斜面上方と段丘上で窯体の一部と赤変箇所を確認したため、当該地点で南北約10m、東西約11mの第2調査区を設けて竹林を伐採し、バックホーで表土層と斜面の流出土を掘削、人力で窯体と赤変箇所を検出した。全体の平面図を作成し、写真撮影の後、窯体の焼成床面毎に掘削、図面作成、写真撮影、遺物取り上げを行った。この調査範囲を第2次調査区と呼称する。調査完了後は、安全のために、バックホーで復旧作業を行った。

写真86 東池尻1号窯の位置(南上空から)
東池尻1号窯の位置

[back] [bottom] [top]
2 遺構
[窯体][灰原]

図235 東池尻1号窯焼成部平面図(1), 図236 東池尻1号窯焼成部平面図(2)・土層断面図(1), 図237 東池尻1号窯平面図, 図238 東池尻1号窯土層断面図(2), 図239 東池尻1号窯土層断面図(3)hi1-tr.pdf (PDFファイル 4.08MB)

(1)窯体

東池尻1号窯窯体部分は、ごく一部の焼成床面を残す以外は、削平を受けて消滅していた。

第2調査区の西端に該当している箇所、標高74.75m付近より下の段丘斜面は、本来は灰原の東端付近である第1調査区拡張区の東端付近へ向けて下っていたものと推測される。調査時点における崖の下端から里道までの間の平坦部分は、本窯廃棄後のある時期における開発によって形成されたもののようである。崖下で地山直上に堆積している黄褐色砂質土・暗黄褐色砂質土は上方からの崩落土であり、調査前の斜面をこれと同質の土が被覆しており、これを除去するとほぼ垂直に切り立った地山面が現れた。また、第2調査区内でも、窯体の上部構造は失われて床面も一部残存するのみであり、この段丘上および段丘崖上部も後世の開発に伴ってかなりの削平を受けている。当該調査区は、近世の狭山藩陣屋跡上屋敷の西端に位置し、第2調査区内の地山面直上の明黄褐色砂質土および暗褐色砂礫土中に平瓦の破片の包含が認められることから、近世に地形が改変された可能性が高い。

窯体は第2調査区西端で検出され、焼成部床面と両側壁の基底部がわずかに遺存する。焚口方向は前述のとおり斜面が切断されているために崖になっており、奥側と両側壁外側も削られ、各々外側に向けて落ち込んでいる。窯体の幅は床面で1.80mを測り、現存長は主軸で1.04mを、最大部分で1.41mを計測する。窯体の主軸方向はN-78°30'-Wである。焼成床面は3枚を確認できる。最下層の第1次焼成床面と、最終床面の第3次焼成床面の上面で、遺棄された須恵器片を検出した。各々の床面中に大量の須恵器の包含が確認できないことから、この部位は焼成部と判断できる。

第1次焼成床面は、暗赤黄色に酸化赤変した地山の直上に貼られている(図236)。地山面には窯体の主軸から約10度南へ振った方向に、上端幅約0.90m、下端幅約0.45m、深さ約0.11mの断面V字状の溝を掘り込んでいる。床面の貼土は暗灰青色の砂質土で、還元焼成されているために上面は硬質であるが、内部はそれほど堅くない。床の厚さは4cm〜10cmである。床面には杯蓋杯身が破砕された状態で残存していた。南側壁付近の奥側の第1次焼成床面は、第2次焼成床面の貼り付け前に除去されている。

第2次焼成床面は、第1次焼成床面の大部分を残したまま、その直上に貼られている(図235下段)。貼土は、やや礫を含んだ暗灰褐色砂質土で、上面のみ硬質である。床の厚さは最も厚い箇所で4cmである。床面上で杯蓋杯身短頸壺を検出した。

第3次焼成床面は、第2次焼成床面の部分補修的な貼り床であったのか、主軸方向の長さは0.78mにとどまり、第2次焼成床面上で島状に遺存していた。貼土は、やや礫を含んだ淡灰青色砂質土で、上面のみ硬質で内部はやや軟質である。床の厚さは3cm以下である。床面上には杯蓋杯身の小片が残存していた。

焼成部床面が遺存していた箇所のすぐ東側は削平が著しく、地山の赤変も確認できないが、床面東端から主軸方向で4.4mの所の東側に地山が赤変した箇所を確認した。その範囲は南北6.8m・東西3.2mに及ぶ。この範囲内に奥壁煙道部が存在していたと推定する。削平をどの程度受けているか分からないが、主軸方向における床面と赤変範囲の東端との比高差および距離から、床面傾斜角度は8度〜10度であったと思われる。なお、本窯の全長は、焚口燃焼部焼成部の下方が完全に欠失しているために明かではない。ただ残存する床面の西端から赤変範囲の東端までで水平距離が8.80mであり、床面西端から灰原東端までの水平距離が10.00m〜12.00mであるので、現在の灰原東端から約5m離れた所に焚口があったとすれば、窯体の全長は13m〜16m程度と思われる。

写真87 窯体遠景(西から)
窯体遠景

[back] [bottom] [top]
(2)灰原

東池尻1号窯灰原は、大別して灰土層と有機物層の2層からなる。

有機物層は、第1調査区中央トレンチ東側の南端で灰土層の上層約25cmに間層を挟んで堆積するもの(図238中段土層36・38・41・43)があり、後者は中央トレンチ西側にも広く堆積し、最長箇所で南北約32m、東西約15mを測り、南側は調査区外へ非常に薄くなりながらも続いている。この有機物層は木質などの植物遺体が腐食した土の堆積で、須恵器片の他に多量の自然木葉片と、少量の加工木材を包含する。特に中央トレンチ東側の中央より北側で、これらの出土数が多く、長さ89cm・幅27cm・厚さ10cmの建築材の一部とみられる木材も検出された(図253)。角材を断面の対角線に沿って半裁したような状態で残存し、正面と側面は平滑で加工痕らしきものも観察できる。裏面は破断面で、彎曲してえぐれ込み、裏面全体が黒色に炭化している。これ以外の自然木木材にも、部分および全体が炭化したものが多くみられ、これが灰土層と部分的に混じるため、この有機物層が東池尻1号窯の操業に伴い、薪の燃え残りや、薪として不要な枝葉を廃棄したため形成された層である可能性が強い。

ただし、この東池尻1号窯の発掘調査後に新規発見された狭山池東樋下層遺構の放水口が、本調査区の南側に位置していることから、A.D.616年以後に機能していたこの樋管から配水された水流がどの位置を通過して、本窯の灰原にどのような影響を与えたのかについては慎重な検討を要する。図238中段に示したように、土層7・10の灰土層の下層には土層11の有機物層が存在し、上層には土層5の有機物層が存在している。東樋下層遺構が据え付けられている箇所の沖積層上面の標高は71.0m前後であり、本窯の灰原と有機物層が堆積している箇所の沖積層上面の標高は70.0m前後である。樋管から流出した水は調査区内の沖積層上面を通過していた可能性も十分考えられよう。

灰土層は、中央トレンチ東側の南端で近世の平瓦片が混じった2次堆積層を検出したが(図238上段土層12・13)、それ以外の箇所では特に顕著な攪乱や2次堆積は認められなかった。灰土層を細かく分層すると、各小単位ごとの灰土塊に分層され、その間に有機物層も存在する。しかし、このせいぜい数10cm四方の大きさの灰土塊をそれぞれ1層として層毎に平面掘削を行うことは実際には不可能である。よって、今回の調査ではこれらの灰土塊の集合をもって、1層の灰原と認識するにとどめた。

灰土層の広がりは南北約31m・東西8m以下の規模を有する。南北端は厚さ10cm以下となって終わり、最も厚い箇所であるA-A'断面付近では40cmの厚みをもつ。この箇所を中心として須恵器の包含がみられ、杯蓋杯身ハソウ高杯脚付長頸壺平瓶短頸壺などが検出された。

写真88 灰原遠景(南から)
灰原遠景

[back] [bottom] [top]
4 出土遺物
[焼成部出土遺物][灰原出土遺物][灰原2次堆積層出土遺物]

東池尻1号窯焼成部灰原および、灰原の2次堆積層から出土した須恵器の総量は、コンテナ約70箱に達した。本稿では、焼成部(第1次焼成床面第2次焼成床面第3次焼成床面)・灰原灰原2次堆積層の各層ごとに報告をおこなう。なお、各個別の遺物観察結果については表2528の遺物観察表を参照されたい。

図240〜図253 東池尻1号窯出土遺物1〜14hi1-rm.pdf (PDFファイル 6.95MB)

(1)焼成部出土遺物

(a)第1次焼成床面出土遺物(図240、図版106、表25)

第1次焼成床面上面に遺存していた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は23点である。器種別の個体数は次のとおり。

杯H身11点・杯H蓋9点・杯G身2点・短脚無蓋高杯1点

杯H身の口径平均値は10.6cm、杯H蓋の口径平均値は11.2cmである。第3章で述べるように、第1次焼成床面出土の杯H身の法量は、図314のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図316のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、2点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、4点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、5点は底部を欠損するため不明。杯H蓋の外面調整は、9点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、3点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とする。

杯G身の口径は12が11.1cm、13が8.7cmを測る。外面調整は、12が底部外面をヘラ切り未調整とし、13が底部外面に回転ヘラ削り調整を施す。

短脚無蓋高杯23は、脚部にスカシを有さないタイプである。

(b)第2次焼成床面出土遺物(図240、図版106、表26)

第2次焼成床面上面に遺存していた須恵器は、杯H身3点・杯H蓋2点・短頸壺1点の6個体である。

杯H身の口径平均値は11.2cm、杯H蓋の口径平均値は10.9cmである。第2次焼成床面出土の杯H身の法量は、図314のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図316のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、26・29が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、28が底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とする。

短頸壺27は体部最大径10.8cmの小ぶりなもので、肩部が下外方へ緩やかに下る形態である。

(c)第3次焼成床面出土遺物(図241、図版106、表26)

第3次焼成床面上面に遺存していた須恵器は、杯H身4点・杯H蓋2点の6個体である。

杯H身の口径平均値は10.1cm、杯H蓋の口径平均値は12.1cmである。第3次焼成床面出土の杯H身の法量は、図314のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図316のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、34・35が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、33は底部を欠損するため不明である。

(2)灰原出土遺物(図241〜250、図版106〜112、表27)

灰原層中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は138点を数える。その器種別の個体数は次の通り。

杯H身41点・杯H蓋29点・杯G身3点・ハソウ1点・長脚無蓋高杯(脚部)7点・短脚無蓋高杯10点・短頸壺5点・短頸壺蓋2点・2点・長頸壺2点・平瓶1点・提瓶3点・30点・器台1点

杯H身の口径平均値は10.0cm、杯H蓋の口径平均値は11.6cmである。灰原出土の杯H身の法量は、図314のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図316のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、13点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、26点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、5点が底部全域を未調整とする。杯H蓋の外面調整は、16点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、13点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とする。

杯G身の口径平均値は10.5cmである。83・85は底部外面に回転ヘラ削り調整を施すが、底部中央を削り残してヘラ切り未調整としている。84は底部外面中央をヘラ切り未調整とする。

長脚無蓋高杯は、130が脚部に2段2方向の長方形スカシを有している。112・113・129が脚部に2段2方向のスリット状スカシを有している。131・132は脚部にスカシを有していない。

ハソウ111は底体部外面10分の9に回転ヘラ削り調整を施し、体部中位の高さに円孔を穿つ。また、このハソウを検出した際に、器内に粘土塊が入っていた。ハソウの円孔に形状と径および厚みが合致するため、円孔を穿孔した際に不要な粘土屑を取り出さず、そのまま焼成してしまい、これが器内に残存していたものと思われる。

短頸壺は体部最大径が16cm以下の比較的小ぶりなものが多く、肩部が下外方へ緩やかに下る形態のものと、肩部が外下方へ強く張り出す形態のものの両者が存在する。

長頸壺115・128の体部外面にめぐらされている沈線はいずれも鈍いもので、その沈線の間に刺突文を有している。

は、口頸部が大型のもの148・149・150・156・161・162・163・166・169・171・173は口縁部直下の沈線の下方に櫛描き斜行沈線文を施文する。154・157・158・159・165・168・170は口縁部直下の沈線の下方に波状文を施文する。152・153・155・164・167・172は沈線のみを頸部外面にめぐらす。口頸部が小型のもの143・144・145・146・147の頸部外面は無文である。

(3)灰原2次堆積層出土遺物(図251〜252、図版109、表28)

灰原層中に包含されていた須恵器のうち、図化が可能であったものの個体数は36点である。その器種別の個体数は次の通り。

杯H身15点・杯H蓋10点・1点・長脚無蓋高杯(脚部)1点・短脚無蓋高杯2点・短頸壺1点・提瓶1点・5点

杯H身の口径平均値は9.9cm、杯H蓋の口径平均値は10.9cmである。灰原出土の杯H身の法量は、図314のような数値分布を示し、杯H身のたちあがり高・たちあがり角度は、図316のような数値分布を示している。杯H身の外面調整は、11点が底部中央から回転ヘラ削り調整を施し、1点は底部に回転ヘラ削り調整を施すものの底部中央を削り残して未調整とし、3点が底部欠損のために不明である。杯H蓋の外面調整は、6点が天井部頂部から回転ヘラ削り調整を施し、3点は天井部に回転ヘラ削り調整を施すものの頂部を削り残して未調整とし、1点が天井部中央を欠損するために不明である。

長脚無蓋高杯202は、脚部にスカシを有していない。

は、口頸部が大型のものに208・209があるが、頸部沈線の上下に波状文を施文する。口頸部が小型のもの205・206・207の頸部外面は無文である。

198は、底部に八の字形の高台を付す。形態からみて、平城宮II註13)・中村編年註14)IV型式2段階に比定されるものであろう。

[back] [bottom] [top]
5 小結

東樋下層遺構の発見が、東池尻1号窯の調査完了後のことであったため、東池尻1号窯と、東樋下層遺構樋管の延長線上にあったと推定される水路との位置関係が、調査で確認できなかったのは残念である。しかしいくつかの調査成果は、その痕跡とも思える箇所を示している。そのひとつが、窯体の大半を削平している崖部の地形改変箇所であり、もうひとつが、沖積層上面に広がる有機物層の広がりであろう。

崖下部分の地山上面には、近世の遺物を包含した土層が堆積していたため、調査時には崖部の地形改変は、調査区の東隣の中位段丘上に占地している狭山藩陣屋跡に関連した土工事によるものと理解していた。しかし東樋下層遺構の検出によって、東池尻1号窯窯体が廃棄された直後、7世紀前半窯体が構築されていた段丘斜面裾を削平して、東樋からの水路をこの箇所に通していた可能性が生じた。また近世初頭に設置された東樋上層樋管からの水路を再びこの場所に設定した可能性もある。

また、中位段丘崖から離れた場所に、東樋下層上層遺構樋管からの水路を想定する場合は、沖積層上面に堆積している有機物層をどのように理解するかが重要であろう。沖積層上面を蛇行するように検出された有機物層の広がりは、水路の範囲を示すようなものとは考えられず、狭山池築造前の河川による堆積と理解するほうが自然である。この想定では、有機物層の上面に設けられた水路は、後世の工事によって完全に破壊されたものと考えざるを得ない。

また灰原中から検出された木製遺物の存在も興味深い。あきらかに柱などの建築部材と思われる木製遺物が含まれている。灰原の形成時期が、東樋下層樋管の埋設と並行するものであるならば、樋管設置に関係する転用材を、本窯で燃料としていた可能性も考えられる。しかし、東樋下層遺構の放水部枡形において窯壁片が使用されていたことや、窯に関わる遺構と東樋の水路が併存していた状況が確認できないことから、東池尻1号窯東樋下層樋管設置よりもわずかに先行していたと考えられる。その場合、灰原中に含まれていた木製遺物は、薪として建築部材等を使用していたと理解できる。

また、灰原2次堆積層から出土したは、平城宮II期のものと考えられる。なんらかの理由で、本窯の灰原が2次移動を受けたのは、この遺物から8世紀前葉のことと思われる。行基狭山池改修に伴う遺物か、東樋下層樋管の延長や北堤第10層堤体盛土などの天平宝字の改修に伴う遺物であるかは判然としないが、奈良時代の人々の活動が、狭山池北堤の改修工事にとどまらず、狭山池北側においてみられたことは確実であろう。

[back] [bottom] [top]
表24 東池尻1号窯と東樋下層樋管との関係
.東樋下層遺構樋管の埋設時に東池尻1号窯が廃棄されていた場合東樋下層遺構樋管の埋設時に東池尻1号窯が操業していた場合
東樋からの水路東池尻1号窯の窯体や灰原を削平して水路が開削された。東池尻1号窯の灰原を避けて水路が開削されたか、水路を避けて灰原が形成された。
東池尻1号窯灰原の木製遺物窯の薪に用いられた建築部材などの転用材。東樋下層遺構樋管の部材との関連も考えられる転用材。
東樋下層遺構の桝形に用いられた窯壁桝形ではTK217型式の杯H身が出土しているため、破壊した東池尻1号窯の窯壁の破片を転用。東池尻1号窯より入手した窯壁片を石のかわりに使用。
東池尻1号窯の操業時期A.D.616年以前に廃棄。A.D.616年を含む操業時期。
[back] [bottom] [top]
註)
1)本報告書第2章第1節参照。
2)奈良国立文化財研究所光谷拓実氏の鑑定による。
3)田辺昭三「陶邑古窯址群I」『平安学園考古学クラブ研究論集』10,1968
4)植田隆司「ひつ池西窯出土須恵器の編年的位置付け」(「ひつ池西窯」『大阪狭山市文化財報告書』10,1993)
5)前出註4報告書
6)森浩一「土器の生産」『狭山町史』第1巻 本文編,1967
7)大阪狭山市教育委員会『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』,1992
8)以下、地質・地形については外山秀一氏(皇學館大学)、三田村宗樹氏(大阪市立大学)、豊田兼典氏(府立富田林高校)の三氏に観察、ご教示いただいた。
9)大阪狭山市教育委員会「太満池南窯・北窯発掘調査報告書」『大阪狭山市文化財報告書』5,1991
10)前出註9報告書
11)前出註7文献
12)『狭山町史』本文編,1967
13)西弘海「七世紀の土器の区分と型式変化」「奈良時代の食器類の器名とその用途」(『土器様式の成立とその背景』,1986)
14)中村浩「和泉陶邑窯出土遺物の時期編年」(大阪府教育委員会「陶邑III」『大阪府文化財調査報告書』第30集,1978)
[back] [bottom] [top]

BackNext


※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
※挿図画像はPDFファイルにて収録している。ファイルサイズが大きいPDFファイルの閲覧では、通信速度等の環境によって読み込みに時間がかかる場合がある。挿図の画像品質を良好に保って閲覧するには、PDFファイルへのリンクをブラウザから開かず、そのファイルをダウンロード・保存したのちにAdobe(R) Reader(R)単体で直接開いて閲覧することを推奨する。
※当文書のテキスト・画像等を他の出版物や Web Page へ無断転載することを禁止する。転載の際は必ず発行者・著作者の許可を得ること。
南河内考古学研究所