狭山池 埋蔵文化財編page37 [第2章]
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第5節 下流遺跡の調査

I 池尻遺跡(1)

[調査の経過][遺構と遺物][小結]
1 調査の経過

本調査は大阪府がダム化工事に関連して造成した仮設グラウンド工事に先立って実施したものである。調査区は狭山池北堤の北方約300mの場所に所在している。調査開始以前には狭山池北東側の段丘面には狭山藩陣屋跡、また北西の段丘面には池尻城跡として周知の埋蔵文化財包蔵地が存在したが、本調査区の所在する谷底平野の部分については遺跡は確認されていなかった。そこで大阪府から造成計画が出された際、狭山池調査事務所で試掘調査を実施することとなった。グラウンド予定地は約12,000m2と広大であったため、試掘調査は南北2本のトレンチを機械掘削によって入れ、その断面を観察する方法で実施した。その結果、北トレンチ東側において中世の土器を多量に含む包含層が検出され、また北トレンチ西側では須恵器などを検出した。また南トレンチの西半分においては水田面と考えられる断面が検出された。さらにトレンチのほぼ全体において、洪水砂や旧河道と思われる礫層がみられ、その中には須恵器片が多く含まれていた。結果的にはグランド用地の全域が遺跡であると考えられるに至った。大阪狭山市教育委員会ではこの結果を受けて、遺跡発見届を提出し、この新規発見の遺跡は池尻遺跡と命名された。本報告書では池尻遺跡における二つの調査結果を報告しているので、本調査区は池尻遺跡(1)と呼ぶことにしたい。このグラウンドは、ダム工事の関連で仮設的につくられるものであり、盛土によって造成されるため遺構等に対する直接的な影響はない。そのため大阪狭山市教育委員会、狭山池調査事務所は大阪府土木部、大阪府教育委員会と協議し、遺物が多く分布し、また特色的である場所において調査を実施することとなった。具体的な調査方法としては、3箇所において10m四方の調査区を設定し、平面的な発掘を実施するとともに、さらに3本のトレンチを掘削し遺構の広がりや、地形などを観察することとした。以後の記述においては、3箇所の調査区をそれぞれA調査区、B調査区、C調査区と呼ぶこととする。また調査を進める過程でA調査区では特に多くの土器の出土をみたため、A調査区に南接してあらたに調査区を設けたがこれをD調査区と呼びたい。試掘調査は1991年1月に実施し、本調査は1992年1月から2月まで実施した。

写真89 池尻遺跡(1)調査区
池尻遺跡(1)調査区

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2 遺構と遺物
[A調査区・D調査区][B調査区][C調査区]
(1)A調査区・D調査区

(遺構)

以下、発掘調査の成果を調査区ごとに述べていくこととしたい。

A調査区は仮設グラウンド予定地のもっとも東側に所在する。先にも述べたようにA調査区発掘の結果、土器を大量に含む遺構がさらに南側にむかって広がっていることが明らかになったため、A区にすぐ南接してさらにD調査区を設けた。この二つの調査区については併せて説明する。この調査区の層序は次の通りであった。現在の地表面である水田の作土、床土を除去すると、黒褐色シルトからなる遺物包含層に達する。この層の下が遺構面となっており、その下には包含層、遺構面はなかった。また調査区東部からは水田が検出されているが、作土面の上には砂層がみられた。この砂層は洪水によって堆積したものと考えられる。砂層は細かく見ると4層にわけられる。これらが何度の洪水による堆積かは不明であるが、少なくとも複数の洪水がこの地を襲ったことは確実であろう。この砂層は調査区の東半分においてのみ観察でき、洪水による砂の堆積は今日の中樋筋を中心とする局地的なものであったことを知ることができる。調査区のすぐ南には狭山池北堤が存在しており、その決壊がなければ、このような洪水砂の堆積は考えにくい。よってA調査区において遺構が検出された鎌倉時代以降狭山池は決壊していることが想定される。

以下個々の遺構について説明していきたい。調査区東部において検出された水田の西端のラインは北から20度西側に振っていた。水田は調査区内において6枚確認され、それぞれは高さ30cm、底幅40cmの畔で区画されている。畔は調査区内で5本存在し、それぞれの間隔は1.8m〜1.3mと今日の水田から考えると極めて狭い。この水田は屋敷地に隣接するいわゆる門田であると考えられるが、中世の門田の一般的な機能を考えればこの小区画の水田は苗代田であるとするのが適当であろう。

A・D調査区にまたがって存在する大きな遺構が落ち込み1である。この遺構は全体的に周囲の面から10cm〜20cm掘下げられており、底面はほぼ平坦である。長さ12.0cm・幅8.0cmの長方形で長辺は真北に対して約30度西に振っている。この遺構の内部には幾つかの柱穴があり、特に柱穴1では柱根と考えられるが残されていた。以上から考えて落ち込み1の性格は住居に伴う掘り込みであると考えるのが妥当であろう。柱の配列は明確でないため、建物の復元は困難であるが中世に掘り込みをもつ住居が存在したことは注目される。ただ落ち込みの規模から考えて屋敷地の中心的な建物であったとは考えにくい。

落ち込み1の内部には多くの礫が並んでおり、礫に混じって完形の瓦器碗など多量の遺物が出土している。礫は西北-南東方向に3列に並んでいるが、もっとも東側の列の礫は計10cmから20cmの大きなものが多く、他の列の礫はやや小さいものが主体となる。このて礫列およびそれに含まれた土器群の性格については現在まだ適当な解答をえていない。

また落ち込み1を囲むようにして幾つかの土坑が検出されている。土坑1は長径2.2m、短径1.8mの楕円形で、深さは最大で33cmである。底面から土師質羽釜東播製こね鉢などの食器が出土している。土坑2は長径1.70m、短径1.00mの楕円形で最大の深さは15cmである。土坑4は長さ1.30m、幅70cm、深さ30cmでメガネ形をしている。これら3つの土坑はいずれも落ち込み1の北側に所在している。土坑3落ち込み1の東側に位置し、長径2.20m、短径1.50m、深さ15cm、やはり羽釜片が出土している。落ち込み1の南側にも四つの土坑がある。土坑5は長径1.0m、短径70cmの楕円形で、深さは23cm。この土坑の埋土には焼土、炭などが多く含まれており、内部で火を使ったことが推定される。ただし土坑内の壁には高熱のための赤化はみられなかった。土坑6は長さ1.8cm、幅1.0m、深さ15cm。土坑7は一辺1.0mの正方形。土坑8は長さ2.1m、幅1.9m、形態はひょうたん型で深さは最大70cmである。D調査区の東側には南北方向に3本のがあり、それぞれに多量の礫が入っていた。礫は間隔が空かないようにきっちりと詰め込まれた状態であった。落ち込み1を建物と考えればこれらの石組はその東南角にあたり、建物の入口の部分を構成していたものと考えられる。石組3の上からは完形の土師器小皿瓦器椀が出土している。

図254 池尻遺跡(1)A調査区・D調査区遺構平面図,図255 池尻遺跡(1)A調査区・D調査区東壁断面図ikjad-tr.pdf (PDFファイル 550KB)

写真90 落ち込み1写真91 石組A
落ち込み1石組A

写真92 落ち込み1土器出土状況写真93 土坑1土器出土状況
落ち込み1土器出土状況土坑1土器出土状況

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(遺物)

図256〜259落ち込み1出土の土器である。器種としては土師器では羽釜があり、瓦器ではがある。その他ごく少数ではあるが白磁須恵器ねり鉢がみられた。その他古墳時代の須恵器の細片が非常に多くみられるが、これは付近の須恵器窯の遺物が後世混入したものであろう。また鉄器として馬具の金具1点が出土している。以下、遺物の概要を述べることとする。

図256〜259落ち込み1出土の土器である。1は土師質の蓋。同種のものは他に出土しておらず、具体的な用途も不明である。3、4は高台がつく土師器の椀である。5〜33は土師皿。33のみが大皿で、他はいずれも小皿に分類されるものである。小皿は外面に指押さえを施し、口縁部はヨコナデを施すものがほとんどであるが指押さえの強弱によって、底部と側面との間に変化点を持つもの(5〜13)と持たないものに分類できる。34〜39は瓦器である。34〜36、39〜44は、それ以外はである。のうち34は底部に高台がつく若干特殊なものである。瓦器椀はすべて和泉型である。全体的に焼成は良好なものが多いが、炭素の吸着が不十分である。時期的には尾上実氏の編年の3-1期を中心とする註1)。60〜67は土師器の羽釜。口縁がくの字型に屈曲するもの(63〜67)とほぼ水平にのびるもの(60〜62)に分類が可能である。前者は体部が円柱に近い形態を示すが、後者においては体部が丸みを帯びる。鍔は62がやや下方に下がっているのを除けば、水平に伸びる。

図260落ち込み1以外の遺構から出土した遺物である。68〜70は土師器の小皿。71〜73はやはり和泉型の瓦器椀。71は高さが5.7cmと非常に高く、形態的に他のものと差異が大きい。74は東播系のねり鉢である。内部には摩滅痕が残る。75は土師器羽釜である。図261には鉄器を載せた。ともに落ち込み1より出土している。76は先端が環状になった鉄製品である。一方の端は欠損しており、全体を知ることはできないが、残存長9.3cmである。環の形態から轡の銜か引手の一部かと考えられる。77はやはり鉄製品である。現存長10.1cm。用途不明だがやはり馬具の一部か。遺物の全体的な様相を眺めたとき、落ち込み1と他の遺構はほぼ同時代のものとみることができる。時期は瓦器羽釜などの年代観からほぼ13世紀初頭とするのが妥当であろう。

図256-図261 池尻遺跡(1)A・D調査区出土遺物ikjad-rm.pdf (PDFファイル 1.43MB)

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(2)B調査区

B調査区については試掘調査において確認できた水田に伴う畦状の遺構の検出を目的として調査を実施した。この調査区では現在の水田の下に3面の水田を観察することができた。図にあげたのは第3面の水田である。この面においては北西-南東方向に並ぶ6本の(高さ20cm、幅35cm)、および北東-南西方向の大きな(高さ25cm、幅210cm)が検出されたが、両者はほぼ直行している。出土遺物は須恵器の破片のみであったが、それらからこの遺構は7世紀代のものと考えられる。は定規で引いたように真っすぐであり、この水田の開発が計画的であったことをうかがわせる。ただの間隔が非常に狭く1区画が長方形であることから、これが水田ではなくである可能性も否定できない。この調査区においては平面的に掘削できたのは第2面だけで他の面は断面観察だけを実施した。第1面の水田はその遺物から近世のものであると考えられる。第3の水田は遺物がなく確実なことはいえないが、C地区や池尻遺跡(2)との対比でいえば6〜7世紀代に遡る可能性がある。

図262 池尻遺跡(1)B調査区第3遺構面平面図・南壁断面図ikjb-tr.pdf (PDFファイル 287KB)

写真94 B調査区全景
B調査区全景

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(3)C調査区

図263 池尻遺跡(1)C調査区第2遺構面平面図・西壁断面図, 図264 池尻遺跡(1)C調査区第3遺構面平面図, 図265 池尻遺跡(1)C調査区第4遺構面平面図, 図266 池尻遺跡(1)C調査区第5遺構面平面図ikjc-tr.pdf (PDFファイル 721KB)
図267 池尻遺跡(1)C調査区出土遺物ikjc-rm.pdf (PDFファイル 211KB)

(第2遺構面)

C調査区については全部で5層の遺構面が認められたが、そのうちもっとも上の第1遺構面については平面的な調査ができなかったので、第2〜第5の4枚の遺構面について述べることとする。

第2遺構面においてはB調査区でも検出されたによって区画された細長い地割りを検出した。この地割りの長軸は北東-南西を向き、B調査区の畦の方向に一致する。調査区内において確認された区画は全部で12であるが、北西部の6つの区画は南北方向のによって切られて、他のものより小さい。また調査区の北東角には水路と考えられるが検出されている。やはりの可能性があるが、外山秀一氏によって行われたこの面の土のプラントオパール分析の結果によるとの部分でも、の間でもイネのプラントオパールが検出されており、水田であるかどうかは別にしても稲作が行われていた可能性が強い。

この遺構面からは遺物の出土が無く、時期は決めがたいが、B調査区の第2遺構面の水田に連続するものとみて間違いなさそうである。

写真95 C調査区第2遺構面
C調査区第2遺構面

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(第3遺構面)

第2遺構面のを除去するとすぐに第3遺構面が現れた。この間に第2遺構面の水田作土と思われる灰色シルトを挟む箇所もあるが、この層は非常に薄い。第3遺構面においては北部において落ち込み箇所と、南東-北西方向に走る2本の、その他2本の東西方向のピット6つを検出した。各遺構の埋土中には須恵器の破片が比較的多くふくまれているが、いずれも須恵器の細片で、図化できたのは図267の1〜8のみである。須恵器は田辺昭三のいうTK217型式に含まれることから註2)、この遺構の時期は7世紀前葉とみられる。この面は第3遺構面や、下の第4遺構面とは異なり、水田とは考えられない。遺構の全体的な性格は明確ではないが、第2遺構面と時期的な差が殆どないことから、第2・第4遺構面によって確認された時期と性格の異なった水田をつなぐ性格を持っている。ここでは一応第2遺構面の水田面を造成するため工事の痕跡と考えておきたい。

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(第4遺構面)

第4遺構面においては8区画の水田を確認することができた。水田はいずれもきわめて小規模なものである。全域が調査区内に収まる水田2を例にとってみると、縦4.7m、横3.2m、面積15.0m2である。また水田と水田の間には水口と考えられる切り口が4箇所みられる。水口の両端のレベルを比較すると水の流れはおおよそ図265に示した通りに復原できる。調査区内には水路は見当たらず灌漑は上の田から下の田へ田越しで行われていたと思われる。または底幅約30cm高さ12cm〜20cmで褐色シルトによって築かれていた。水田2水口付近には円弧を描くように7個の直径5cmほどの小ピットが検出された。これは杭穴と考えられる。水口にともなう施設の一部であろうか。また水田1、および水田4の内部には有機物が幅50cmにわたって帯状に堆積していた。この有機物は南側にのみ掘りこまれたL字溝のようなに堆積している。堆積の厚さはもっとも深い箇所でも8cmである。この溝状遺構を横切って掘られていることから水入れに関する施設とは考えにくい。現在でも水田の排水に関してこのような溝が掘られることがあるが、この場合も排水施設とみるのが妥当と思われる。

第4遺構面からは図化不可能な土師器細片が多く出土しているが、第3遺構面までは多くみられた須恵器は全く検出されなかった。狭山池周辺は須恵器窯が多く、古墳時代以後の包含層にはたいてい須恵器が含まれている。したがって全く須恵器がみられないこの遺構面は狭山池周辺に須恵器窯が多く築かれる6世紀後半以前のものと考えるのが適当である。狭山池の築造年代はこの調査が終了後、実施された東樋遺構狭山池1号窯の発掘調査によってほぼ7世紀初頭であることが確定したが、これらの調査の成果を参照すると第3遺構面の経営時期は狭山池築造に先行すると考えられる。またこの遺構面で検出された面積の小さい水田は一般に小区画水田と呼ばれ、弥生時代から古墳時にかけて全国でみられる水田の一般的な形態である。狭山池築造以前において狭山池のすぐ下流にあるこの地点で水田遺構の存在が確認された意義は極めて大きいといわねばならない。

写真96 第4遺構面の水田
第4遺構面の水田

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(第5遺構面)

この遺構面においては南北方向の土坑焼土坑などを検出している。溝1、およびピット1の埋土から破片ではあるが土器が出土している。図267-9は布留式甕、10はややそれに先行する庄内式の甕である。ともに外面は摩滅のため調整は観察できない。11はの底部であるが、形態的には弥生土器の可能性もある。12は無頸壺でやはり庄内期のものであろう。これらの土器は細片であり、これらから遺構面の時代を決定することは困難であるが、古墳時代の前期から中期に遡る時代の面であることは間違いがない。また焼土坑の存在から住居跡があると思われるが、すでに述べたように後世に水田の開発がなされており、遺構面が削られているためか、それを確認することはできなかった。大阪狭山市内において布留・庄内期の遺構が確認されたのはこれがはじめてであった。また第5遺構面では、地震による液状化現象に伴う噴砂の跡が観察できた。この面においては長さ2.8mにわたって砂の入った割れ目が観察でき、噴砂の痕跡と考えられる。この割れ目は第5遺構面より上の遺構面では見られないため、地震は古墳時代前期〜中期に起こったものと考えられる。

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5 小結

池尻遺跡(1)は前述の通り狭山池の北側約300mに所在し、狭山池の中樋取水路にもすぐ西接している。発掘調査は面積的には小規模なものであったが、狭山池の築造やその後の改修と深く関連したこの地域の開発状況を部分的に明らかにすることが可能となった。

C調査区では層序的な調査が可能であったために、狭山池の築造期をはさむ遺構面を検出することができた。第5遺構面から出土した土師器焼土坑狭山池北方の谷底平野における集落の展開が古墳時代前期〜中期にまで遡ることを明らかにした。また第4面で検出された小区画水田狭山池の築造以前にも狭山池下流部に水田が存在していたことを示している。池尻遺跡(1)の調査の翌年に発掘が行われた池尻遺跡(2)でも、狭山池に先行する小区画水田が検出されており、狭山池の築造以前にも段丘からの谷水を利用した小規模な水田開発が行われていたことはほぼ明らかになった。第2面の水田7世紀以後のものと思われるがが整然と並んでおり、狭山池以前の水田とはやや趣を異にする。狭山池の築造を契機として下流でも土地区画や水路網の整備が進められたことが推測できる。B調査区で検出された水田もC調査区第2遺構面の水田に対応するものであろう。

A調査区では中世の建物址が検出された。遺構の主体は落ち込み1付近に想定される建物である。その周辺にも多くの土坑柱穴が存在していることから複数の建物が存在したと考えられ、この遺構群は複数の建物から構成される小規模な屋敷地と考えられる。そのすぐ横には苗代田と思われる小規模な水田が並んでいたことも注目される。この景観からは中世史研究において注目されている門田の景観が想定できる。図268は調査区付近の小字図であるが、A調査区を含むこの周辺の小字名は門田(かどた)であることも、この遺構の性格を考える上でヒントになるだろう註3)。屋敷地とその門前に広がる水田が対になった景観は中世前期の村落景観のひとつのモデルとされてきた。今回の調査区からは破片ではあるが白磁碗も出土しており、ここではこの遺構を鎌倉期の小領主の屋敷地および門田であると考えておきたい。また本調査区で今一つ注目すべきものは水田の上に堆積した砂層である。これを洪水による堆積と考えるならば、この屋敷地が廃絶した後に狭山池は決壊していたということを考えなければならない。また屋敷地横の水田の存在から考えるとこの遺構の時期には狭山池が機能していたことも推測できる。この遺構の時期と考えられる鎌倉時代初期は狭山池を東大寺の僧重源が改修した時期に一致する。水田面に堆積した砂層の時期は不明であるが、狭山池の堆積物を地質学的に調査した三田村宗樹氏などの研究成果によって、狭山池は築造以来数回地震に襲われており、特に1596年の地震は堤体を崩壊させた可能性があることが明らかにされている註4)。A調査区で検出された砂層も地震などの災害の被害と関連づけて理解できるだろう。

図268 池尻遺跡(1)付近の小字図zu268.pdf (PDFファイル 188KB)

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所