狭山池 埋蔵文化財編page38 [第2章]
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II 池尻遺跡(2)

[調査の経過][層序][遺構と遺物][小結]
1 調査の経過

本調査区は狭山池北堤のすぐ北側に所在しており、ダム工事完成後は堤体の一部あるいは資料館敷地として利用される場所にあたる。狭山池の両岸を構成する段丘崖にはさまれた谷底平野にあたり、狭山池築造以前にはこの付近を旧天野川が北流していたことが予想される場所である。調査箇所は調査以前には周知の遺跡ではなかったが、試掘調査の結果、古墳時代の水田など多くの遺構や須恵器などの遺物を検出したため、トレンチによって遺構、遺物が確認できた範囲2,200m2において全面的な発掘調査を実施することとなった。遺跡発見によりこの調査区は池尻遺跡の一部となった。本報告書では本調査区を池尻遺跡(2)と呼ぶことにしたい。また調査の過程で須恵器窯(狭山池1号窯)の灰原など新たな発見があったため、調査区を若干拡張し、調査につとめた。試掘調査は1992年9月から同年10月まで実施し、それに引き続いて本調査を1993年2月まで実施した。1992年12月12日には現地説明会を開催した。

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2 層序

今回の発掘調査は先述の通り試掘トレンチによって遺構が認められた範囲において南北46m、東西35mの長方形の調査区を設定して実施した。調査区内における基本的な層序は以下の通りである。まず最上層には厚い盛土がかぶさっていた。これはグラウンド造成のため1968年ごろに盛られたもので、もっとも薄い南端で120cm、もっとも厚い北端では220cm程度の厚さである。盛土の最下層にはグラウンド排水用の管が縦横にいれられておりその一部は遺構面を破壊していた。それ以外についてはグラウンド造成時には元の水田には一切手を加えず盛土したようで、この盛土の下にはそれ以前の水田がそのまま埋められていた。この水田の作土の厚さは30cmから40cmとこの地方の水田としては厚いほうである。この水田作土の中からはいくつか遺物もみつかっているが、おおむね近世初期以降のものである。つまりこの水田面は近世以降昭和後期までの面である。この水田作土の下には茶色粘土からなる鍬床層が形成されていた。調査区南部ではこの鍬床層の下に砂層、あるいは後述する須恵器窯灰原層が存在している。これらの層は北へいくほど薄くなり、調査区北部ではほとんどみられなかった。そのため調査区北部においては近世水田作土、鍬床の下に古墳時代の水田面が直接接しており、近世以降の耕作によって古墳時代の水田面が大きく影響を受けている。この砂層、あるいは灰原層の下が古墳時代の水田作土の層である。この層の厚さは平均25cm程度であるが厚い部分では60cmに達しており、水田作土層としては非常に厚い。水田によって区画されていたが、このを構成していた土は水田作土と同じものであった。この層の下には暗灰色シルト層が存在する。この層が古墳時代水田の鍬床と考えられる。その下には淡灰色あるいは暗灰色のシルト層が存在する。この層には多くの有機物が含まれている。これは低湿地の環境で堆積した層であり、人為的な水田面ではないようである。その下には灰色の砂層が堆積している。今回の調査ではその上面を確認しただけで、砂層を深く掘削しその厚さを計ることはしなかった。ただしこれまで大阪狭山市教育委員会などがこの付近で実施した発掘調査の結果によれば、この砂層は谷底平野のあらゆる箇所において観察することができ、その厚さは最大で3mに及ぶことが確認されている。これは明らかに河川などによって運搬され堆積した沖積層であり、常識的に考えれば狭山池築造以前にこの低地を北流していた旧天野川によって形成された層とみることができよう。この層の年代は水田および狭山池の年代を定める上で非常に重要である。今回の調査ではこの層の上面から60cm下がったところから横瓶と思われる須恵器を検出している(図270)。口縁部が欠けているため正確な型式は決めがたいが、横瓶の初現自体が田辺昭三氏の編年でいうTK209型式あるいはTK217型式であると考えられ、遺物の年代は6世紀末を遡ることはないだろう。最大で厚さ3mにもおよぶこの砂層の年代については慎重にならざるをえないが、その最後の時期はほぼこの年代に限定してよいと思われる。したがって水田の経営された時期はそれ以後の時代ということになる。

調査区の基本的な層序は以上の通りである。今回の調査では古墳時代の水田面に調査の主眼をおき、まずグラウンド盛土を重機で掘削し、近世の水田面以下の層を人力で掘削し、古墳時代水田面の検出につとめた。またこの水田作土より深い層についてはトレンチの断面を観察した結果、遺物などはほとんど含まれておらず調査の対象から外した。ただし最下層の砂層には須恵器などの遺物が少量みられたが、これは河川や洪水の運搬によるものと考えられる。これらの遺物は採集するにとどめた。

図269 池尻遺跡(2)東西断面図zu269.pdf (PDFファイル 251KB)
図270 砂層出土遺物実測図zu270.pdf (PDFファイル 173KB)

写真97 池尻遺跡(2)と狭山池北堤写真98 灰原層と水田作土層
池尻遺跡(2)と狭山池北堤灰原層と水田作土層

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3 遺構と遺物
[遺構面の重なり][水田][畑][須恵器窯灰原][中近世の遺構 遺物]

図271〜図274 池尻遺跡(2)遺構ikj2-tr.pdf (PDFファイル 803KB)
図275〜図277 池尻遺跡(2)出土遺物ikj2-rm.pdf (PDFファイル 512KB)
表29 水田の規模と方位

(1)遺構面の重なり

今回の発掘調査で確認した遺構面は基本的には1層である。しかしながら調査区の南部においては3層の異なった遺構の重層がみられた。このことは今回の発掘調査にとって重要な意味を持つので、まず年代の古い下層の遺構面から順にその概要を述べ、ついで個々の遺構について説明を加えていくこととしたい。

本調査区のほぼ全面にわたって水田遺構が検出された。ただし先述の通り調査区の北側や西側ではこの水田面の直上に近世の水田面が存在したため、耕作によって攪乱や掘削がなされ畦の検出は困難であった。また調査区中央部でもがまったく検出されない部分があったが、この付近は水田面が他の部分より高くそのため後世の耕作によりが失われてしまったものと思われる。このような後世の遺構の改変を考慮に入れれば調査区の南西角から北東にのびる段差を水田の西端とみなすべきであろう。この段差にそって杭列とみられるピット列が一部でみられた。ただしこの段差の西側においても一部では水田がみられる。また調査区のもっとも北部において狭い間隔でが並んでいる部分があった。これは形態からと考えられる。またこの場所で川崎地質株式会社に委託して実施した花粉分析の結果によればソバ属、イネ属などの花粉が検出されており、これらの作物が栽培されていた可能性が高い(第3章参照)。これらの水田面のうち南側の部分については作土の上に大量の須恵器の破片が散乱しており、また焼土や窯壁の破片も多くみられた。これは明らかに須恵器窯灰原の状況を示すものであった。この場所は狭山池の東岸を構成する段丘崖からは50m以上離れているため、当初須恵器窯の存在はまったく想定していなかった。この灰原を追い掛けて調査区を南(堤体側)に拡張したところ、南にいくほど、つまり狭山池北堤に接近するほど灰原は厚くなり遺物の量も増加していった。このことから考えてこの狭山池築造後、そのの斜面を利用して築かれたものと考えられる。このは調査後、狭山池1号窯と命名した。狭山池1号窯の遺構、遺物については本章第4節において別途報告している。この灰原層のさらに上層に厚さ20cmの砂利を主体とする盛土がなされていた。この盛土はかなり踏みしめられた状態で盛られており、明らかに水田面を別の形で利用するための造成と考えられる。ただしこの盛土の面から明確な遺構は確認されなかった。またこの盛土に対応する遺構として石が直線的に並べられたものが2列平行して検出されている。この石列は盛土の西端ラインに垂直に配置されておりその上に土が盛られていた。遺構の性格としては盛土部分に通じるであると考えられる。これらの遺構の重なりは、水田灰原→盛土という土地利用の変遷が調査区の南部地域においてみられたことを物語る。また水田作土の上に直接に灰原が堆積している状況はこの変化が比較的短期間に生じたことを示している。調査区の南部においてはこのような土地利用の変遷を地層の重なりとして読み取ることが可能であるが、逆に北部においては同じ面に異なった時代の遺構が残されており著しい対照を示している。

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(2)水田

調査区は南北東西の2本のセクションによって4つに区画されている。南西部がA区、南東部がB区、北西部がC区、北東部がD区である。さらに灰原の範囲を探るため調査区を南に拡張したがこの拡張区をE区とする。今回検出した水田は調査区内において140筆検出されている。ただしC区、D区など北側の水田は後世の攪乱、削平によってが相当変化していると考えられる。これに対してA区、B区、E区の水田灰原、盛土などによっていわば密封された状態で残存しており当初の水田の形態を探るには南部のものを中心にとりあげるべきであろう。この地区の水田の基本的な形は南北に長い長方形である。正確には水田の長軸は磁北から東に40〜45度程度振っている。A区、B区、E区の水田の大きさの平均は長軸の長さが3.63m、短軸が1.37mである。長軸の長さは北側の水田が短く、南に行くほど長くなっている。これに対して短軸長は1.3mにほぼ一定している。もっとも大きい水田の面積はE調査区で検出されたもので9.1m2、またもっとも小さい水田はA区でみつかったもので面積は1.8m2である。全体的に非常に小さな区画が多く、典型的な小区画水田といえる。最近全国で弥生時代、古墳時代の水田の出土が増加し、その構造も次第に明らかになってきている。弥生・古墳期の一般的な水田の形態は池尻遺跡にみられるいわゆる小区画の水田である註5)。これまでの研究によれば、水田はまず大きなによって区画され、それを小さなによって細かく区画していることが明らかになっている。多くの小区画水田はいわゆる所有の単位ではなく、傾斜地などで水持ちをよくするために区画されたと考えられるようになってきている。池尻遺跡水田もまず大畔によって区画された後、小畔によって細分されたと考えるべきであろう。水持ちをよくするための小畔は傾斜方向に対して垂直に設けるのが当然であるが、本調査区は東から西にむけて僅かに傾斜しているため南北方向の小畔が多くみられるものと考えられる。A、B、E区における大畔の区画は図273に記した通りで、一応調査区内において8つの区画を考えている。この大畔を設けたのち、南北方向を中心とする小畔を1.3m間隔で設けたのだろう。各水田の間には水路らしいものはまったく観察できず、いわゆる田越灌漑がおこなわれていたと思われるが、水田には水口などもみられない。この程度の大きさの水田区画であれば特に水口がなくても水入れは可能であったのだろうか。ちなみに調査中、何度か降雨があり、その度に水田跡にたまった水を排水する作業を行ったが、その際には板で水を押すように排水するのがもっとも効果的であった。かつての農民も同じ要領で入排水をした可能性があるだろう。どちらにせよ調査区内において水路がみられないということから、今回検出された水田群は河川などから水を引いて灌漑したのではなく、天水または段丘崖などから流れてくる小規模な谷水を利用したものと考えられる。

また水田群のなかには数箇所水田を掘り残した部分がみられた。B区の東北隅の掘り残し部分は長軸方向(NE-SW)の長さが4.8m、短軸方向の長さが2.7m、面積は12.96m2、またB区の中央掘り残し部分は長軸方向(NW-SE)の長さが6.0m、短軸方向の長さが1.9m、面積は11.4m2である。ともに水田1区画ないしは2区画を掘り残したもので、現在の水田と比較してその機能を類推すれば、刈入れの時に稲を仮置きするような作業空間であったとみられる(図273の斜線部分)。

またはこれまで述べてきたように大畔小畔に分類できる。大畔は断面が台形であり、これに対して小畔はかまぼこ形の断面である。小畔の高さは場所によって相違がありもっとも高い所で14cm、もっとも低いところで4cm、平均は7cm程度である。

この水田の作土の中からは遺物の出土はなく、直線的に水田が築造された時期を確定することはできないが、先に述べたようにこの水田の下の砂層から6世紀以降のものと思われる須恵器が検出され、また水田の上に堆積している灰原の遺物がTK217型式を中心とするものであることから考えてこの水田6世紀末に築かれ7世紀の前半にはすでに廃棄されていたとみられる。またこの水田狭山池の前後関係については現在のところ以下のように考えている。今回検出された水田狭山池北堤のすぐ北まで続いており、現在の狭山池北堤の中にさらに連続する可能性がある。また狭山池調査事務所が北堤において実施したボーリングのコアのうち、堤体の基盤にあたる有機物層からはイネのプラントオパールが検出されたことが外山秀一氏によって報告されており註6)水田狭山池に先行する可能性が高い。この水田作土の上に直接須恵器窯灰原がかぶさっていることから、水田狭山池築造直後に廃棄されたことが考えられる。水田北堤のすぐ直下であったために、狭山池から流出する水路よりも標高が高く引水ができず、また狭山池築造以前に依拠していたと思われる東側段丘からの谷水も、北堤によって供給を絶たれたことがこの耕作放棄の原因であろう。

調査区の西端で他の水田とは切り離された状態で、水田が6筆検出されている。これらの水田は他の水田とは異なり、砂で埋没していたために足跡が顕著に残っていた。足跡は大部分が人間のものと考えられるが、なかには楕円形のものがありこれについては家畜のものである可能性がある。人間のものと考えられる足跡は長さが20cm程度のものがほとんどで非常に小さい。また砂を掘って深さを計ったがほとんどは2〜3cmの深さであった。

写真99 一番小さい水田写真100 水田に残された足跡
一番小さい水田水田に残された足跡

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(3)畑

C区、D区の北部においてが30cm〜40cm間隔で並んでいる部分がみられた。これはと考えられる。はおおむね砂によって埋められていたため検出は比較的容易であった。の一本一本のの断面は上面が平たく両端が急角度におちこむ台形であった。の間隔が30cm程度と非常に狭いためそれほど大きな作物が植えられていたとは考えられない。花粉分析の結果ではソバ属、イネ属の花粉が検出されている(第3章参照)。が検出された面は基本的には水田と同一面であるが、先にものべたように今回の調査区の北側では古墳時代の水田と近世以降の水田が直接接しているためその時期の判断には慎重な態度を取りたい。最近では群馬県などで古墳時代のも幾つか報告されているが、関西においては古い時期のの事例は極めて少なく、奈良県広陵町箸尾遺跡や大阪府藤井寺市西大井遺跡において中世のが報告されているにすぎない。かりに今回検出したが古墳時代のものであれば貴重な事例となろう。

写真101 畑全景
畑全景

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(4)須恵器窯灰原

先述の通り調査着手以前には須恵器窯の存在は予想しなかったが調査途中多量の須恵器片が出土し、灰原であることが確認された。灰原はA区、B区および拡張区であるE区において見られた。灰原の厚さはもっとも厚い部分で35cmであるが、薄い箇所では2cm程度である。B区では灰原は広い範囲に広がっているが大半は焼土のみ層であり、遺物などが多く含まれているのはA、B区の南端とE区である。それ以外の箇所においては須恵器片はブロック状にかたまって検出された。灰原中の遺物については第4節において別途報告する。この灰原層は水田の間を埋めるように堆積しており、水田作土との間には間層はまったくみられなかった。このことから水田の放棄後、間を置かずにが築造され灰原が形成されたと考えられる。またこの灰原を堆積させる原因となった窯本体の所在については、東側の段丘崖までは距離も遠く、北堤そのものの傾斜面を利用して築いたものと考えられる。この点についても第4節で触れている。これまで我が国の須恵器窯でこのように人工の斜面を利用して築造されたものの発掘例はまったく無く、このは非常に特殊なものと考えられる。今日の常識で考えれば池の堤体を築くことは池の決壊を考えれば絶対に考えられない。しかしながら狭山池は我が国でも最古の段階の溜池であり、少なくとも当時我が国でもっとも主要な須恵器生産地域であった陶邑窯跡群一帯においては最初の大土木構築物であったと思われる。そのような状況の中で須恵器を生産する工人達に今日的な意味での土木技術に対する常識が欠落していてもそれほどの不思議はないだろう。狭山池1号窯の経営は最初の溜池であるために生じた現象とみることができる。

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(5)中近世の遺構・遺物

今回の調査区においては先にも述べたように、南側では古墳時代の水田の上に須恵器窯灰原などの間層があり、その上に水田を中心とする近世遺構が展開していた。の中には相当深く掘りこまれたものがあり、その中からはいくつか遺物が出土している。図275に掲載したは調査区外のトレンチ中から出土したものである。この場所は近世の水田面から深く掘りこまれたの底部分にあたる。共伴する遺物がないため正確な時期は不明であるが、やはり近世の遺物と考えられよう。は刃渡り15.2cm、峰の厚さは2.5mmである。刃はほぼ直線的に伸びているが、峰は平面形はゆるやかな曲線を示している。柄の部分の先端は内側に曲がっておりこの部分に釘を引っ掛けて木部に着装できるようになっている。柄と刃の角度は112度でこれは草刈鎌の一般的な角度である。

また調査区の北部においては古墳時代の水田面の直上が近世の水田面となっていたため、近世の面からの遺構と思われるものがいくつか残されていた。図272における溝1は幅20cm、調査区内における長さは15.1cm、深さは25cm、断面形はほぼ正方形である。の中には直径5cm程度の小石がぎっしりとつまっていた。またそれらに混じって近世の土器瓦片が若干出土している。このは排水のために利用されたものと考えられる。溝2は幅60cm、調査区内における長さ7.9m。流れの方向は東から西である。図276・277はともに包含層出土の遺物である。包含層からは古墳時代の須恵器もみられるがいずれも狭山池1号窯から後世移動したものであろう。ただし13のみは奈良時代の須恵器である。また14、17は近世以降の遺物である。これらは近世水田の耕作に伴う遺物であろう。

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4 小結

池尻遺跡(2)の発掘調査では、古墳時代後期の水田跡須恵器窯など多くの遺構を検出した。なかでももっとも特筆すべき点は、狭山池築造の下限を考古学的にほぼ押さえることができたことであろう。この調査の後に行われた東樋下層遺構の調査によって狭山池の築造年代は7世紀初頭にほぼ確定したが、池尻遺跡および狭山池1号窯の調査成果はそれを補完する役割を担っている。さらに狭山池築造に先行すると見られる水田を検出したことも大きな成果であった。狭山池の築造は南河内の開発にとって大きな契機であったことは間違いのないことであろうが、狭山池ができて初めて水田の開発が開始されたのではなく、谷水や雨水などを利用した不安定な水田が所々に細々と営まれていた状況のなかで、狭山池が築かれたことが今回確認された。狭山池の築造と下流の大開発は恐らくは国家レベルでのものとみられるが、今回検出された水田狭山池の築造によって廃棄されたと考えられ、国家的大開発が一面では地域的な小規模開発を飲み込む形で進行したことを示している。

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所