池尻城跡は狭山池の西北側の段丘面に所在する中世城館である。古くから遺物の散布や「古城」「小屋ノ内」などの小字名の分布から城跡の存在が予測されていたが、1985年に大阪府教育委員会によって発掘調査が行われ、濠に囲まれた曲輪の存在が確認された。遺物などからみてこの城館は13世紀末から15世紀前半にかけてのものであることも判明している註7)。
今回のダム工事の一環として、狭山池北堤上を通っていた市道を池の北側に移動させる工事が行われることとなり、この付け替え市道が池尻城跡内を通るために工事に先立って、発掘調査を実施した。なお調査は用地買収などの関係で3回にわけて実施したが、本書においては個々の調査の結果を総合して報告する。調査期間は1988年11月、1991年7月、1992年7月〜8月であった。
前述の通り調査は3回に分けて行った。図278のA調査区は1991年に、またB調査区は1992年に調査を実施した箇所である。両区の真ん中の部分は1988年に発掘調査を実施した箇所であるが、ほとんど無遺構、無遺物であったために、地山の確認調査のみを実施した。
西側に位置するA調査区では溝・ピットを検出した。また調査区の東側半分では溜池1が検出されている。溜池1は溝など他の遺構よりも後に掘削されており、溝などを断ち切っている。長さは調査区内で18.5cm、幅はやはり調査区内で6.8mである。深さは少なくとも3.2m以上あるが、それ以上の掘削は危険であったために行わなかった。溜池1の範囲は調査区よりもさらに東と南に広がっている。溝は溜池1よりも西側においては定まった方向をもたずランダムに配置されている。溜池1付近においては東西、南北方向に直角に交差して流れている。ただしA調査区におけるこれらの溝やピットの意味については遺物もなく不明というしかない。
東側のB調査区においては二つの溜池(溜池2・溜池3)と溝を検出した。溜池2は調査区内における長さ、幅がそれぞれ4.8m・2.7mであり、さらに南側、西側に広がっている。溜池3は溜池2に連続する小さな溜池で、両者の境界には小規模な堤がみられた。溜池3の規模は調査区内において長さ12.0m・幅3.4mであった。また溜池3の東端には幅3.1m、高さ0.7mの堤がありその下には樋管が埋設されていた。堤の中心にはよく締まった粘土、シルトが入れられており、水漏れを防いでいる。現在中ハガネとも呼ばれているコア構造をもつ堤である。樋はマツの丸太を半切にし内部を正方形にくりぬいて再びあわせたもので、検出された長さは182cmであった。堤防はこれよりも長いので樋の長さも設置当初はさらに長かったと思われる。蓋材は86cmのみが残存していたが、端部の上面には直径11cmの穴があけられていた。この部分に男柱を差し入れて水の調整を行っていたと思われる。ただ溜池3についても池の堆積物は随分と深いことが予想されたが、湧水が激しく掘削が困難であったため深さは不明である。しかしながら樋で取水できる部分よりもはるかに溜池は深いことだけは確実であり、この樋では溜池3に貯まった水のうち、上層のものしか取水できないこととなる。樋よりも深い部分の水については人力で汲み出し利用したのであろう。狭山池周辺の段丘上においてはこのような掘り込み式の溜池が多く、フチと呼ばれている。フチでは水田の経営は不可能であり、主として畑作に利用されている。今回検出された3個の溜池はいずれもフチであると考えられる。B調査区では二つの溜池に平行して東西方向の溝が検出されており、さらに溜池3の樋付近ではこれに直交する南北方向の溝も検出されている。いずれもこれらの小規模な溜池の水を最大限利用するための水路であると考えられる。本調査区においては遺物はほとんど検出できなかったため、これらの溜池をはじめとする諸遺構の時期は不明であるが、堤防にハガネ工法をもちいている点や、いわゆるO型の樋管を利用している点などからみて、溜池の時期は近世であると考えられる(第3章参照)。
| 写真102 溜池3の樋 |
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今回の調査地は池尻城跡に含まれていたが、当初予想していた中世の城館の遺構は検出できなかった。おそらく池尻城の南端はこの調査区よりもさらに北であり、池尻城と狭山池は直接接していなかったことがわかる。今回の調査で検出できたのは池尻城よりもさらに後世の近世の農業関係の遺構であった。特に溜池3においては小規模なものではあったが堤と樋を対で検出でき、樋や堤の歴史の上では新たな資料を手にすることができた。また狭山池の西北の段丘面上の耕地開発の時期が近世であり、小規模な溜池を中心とする開発であったことも明らかになった。