狭山池 埋蔵文化財編page40 [第2章]
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III 池尻城跡

[調査の経過][遺構][小結]
1 調査の経過

池尻城跡狭山池の西北側の段丘面に所在する中世城館である。古くから遺物の散布や「古城」「小屋ノ内」などの小字名の分布から城跡の存在が予測されていたが、1985年に大阪府教育委員会によって発掘調査が行われ、に囲まれた曲輪の存在が確認された。遺物などからみてこの城館13世紀末から15世紀前半にかけてのものであることも判明している註7)

今回のダム工事の一環として、狭山池北堤上を通っていた市道を池の北側に移動させる工事が行われることとなり、この付け替え市道が池尻城跡内を通るために工事に先立って、発掘調査を実施した。なお調査は用地買収などの関係で3回にわけて実施したが、本書においては個々の調査の結果を総合して報告する。調査期間は1988年11月、1991年7月、1992年7月〜8月であった。

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2 遺構

前述の通り調査は3回に分けて行った。図278のA調査区は1991年に、またB調査区は1992年に調査を実施した箇所である。両区の真ん中の部分は1988年に発掘調査を実施した箇所であるが、ほとんど無遺構、無遺物であったために、地山の確認調査のみを実施した。

西側に位置するA調査区ではピットを検出した。また調査区の東側半分では溜池1が検出されている。溜池1など他の遺構よりも後に掘削されており、などを断ち切っている。長さは調査区内で18.5cm、幅はやはり調査区内で6.8mである。深さは少なくとも3.2m以上あるが、それ以上の掘削は危険であったために行わなかった。溜池1の範囲は調査区よりもさらに東と南に広がっている。溜池1よりも西側においては定まった方向をもたずランダムに配置されている。溜池1付近においては東西、南北方向に直角に交差して流れている。ただしA調査区におけるこれらのピットの意味については遺物もなく不明というしかない。

東側のB調査区においては二つの溜池(溜池2溜池3)とを検出した。溜池2は調査区内における長さ、幅がそれぞれ4.8m・2.7mであり、さらに南側、西側に広がっている。溜池3溜池2に連続する小さな溜池で、両者の境界には小規模ながみられた。溜池3の規模は調査区内において長さ12.0m・幅3.4mであった。また溜池3の東端には幅3.1m、高さ0.7mのがありその下には樋管が埋設されていた。の中心にはよく締まった粘土、シルトが入れられており、水漏れを防いでいる。現在中ハガネとも呼ばれているコア構造をもつである。はマツの丸太を半切にし内部を正方形にくりぬいて再びあわせたもので、検出された長さは182cmであった。堤防はこれよりも長いのでの長さも設置当初はさらに長かったと思われる。蓋材は86cmのみが残存していたが、端部の上面には直径11cmの穴があけられていた。この部分に男柱を差し入れて水の調整を行っていたと思われる。ただ溜池3についても池の堆積物は随分と深いことが予想されたが、湧水が激しく掘削が困難であったため深さは不明である。しかしながらで取水できる部分よりもはるかに溜池は深いことだけは確実であり、このでは溜池3に貯まった水のうち、上層のものしか取水できないこととなる。よりも深い部分の水については人力で汲み出し利用したのであろう。狭山池周辺の段丘上においてはこのような掘り込み式の溜池が多く、フチと呼ばれている。フチでは水田の経営は不可能であり、主として畑作に利用されている。今回検出された3個の溜池はいずれもフチであると考えられる。B調査区では二つの溜池に平行して東西方向のが検出されており、さらに溜池3付近ではこれに直交する南北方向のも検出されている。いずれもこれらの小規模な溜池の水を最大限利用するための水路であると考えられる。本調査区においては遺物はほとんど検出できなかったため、これらの溜池をはじめとする諸遺構の時期は不明であるが、堤防にハガネ工法をもちいている点や、いわゆるO型の樋管を利用している点などからみて、溜池の時期は近世であると考えられる(第3章参照)。

図278 池尻城跡調査区位置図, 図279 池尻城跡遺構平面図, 図280 池尻城跡樋平断面図ikjj-tr.pdf (PDFファイル 635KB)

写真102 溜池3の樋
溜池3の樋

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4 小結

今回の調査地は池尻城跡に含まれていたが、当初予想していた中世の城館の遺構は検出できなかった。おそらく池尻城の南端はこの調査区よりもさらに北であり、池尻城狭山池は直接接していなかったことがわかる。今回の調査で検出できたのは池尻城よりもさらに後世の近世の農業関係の遺構であった。特に溜池3においては小規模なものではあったがを対で検出でき、の歴史の上では新たな資料を手にすることができた。また狭山池の西北の段丘面上の耕地開発の時期が近世であり、小規模な溜池を中心とする開発であったことも明らかになった。

註)
1)尾上実「南河内の瓦器椀」『藤沢一夫先生古稀記念古文化論叢』,1983
2)田辺昭三「陶邑古窯址群I」『平安学園考古学クラブ研究論集』10,1966
3)上田宏範「東池尻・池尻の<庄司庵><門田>」『狭山の地名五十話』大阪狭山市役所,1992
4)吉川周作三田村宗樹内山高長橋良隆槻木玲美Edy Sunardi里口保文橋本定樹山本岩雄田中里志山崎博史佐藤隆春市川秀之「大阪狭山市狭山池堆積物における液状化跡」『地質学雑誌』第103巻10号,1997
5)工楽善通『水田の考古学』東京大学出版,1991
6)外山秀一「狭山池の形成と植生環境その1 -堤体ボーリングコアのプラントオパール分析-」『狭山池調査事務所平成2年度調査報告書』狭山池調査事務所,1991
7)『池尻城跡発掘調査概要』大阪府教育委員会,1987
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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所