池尻遺跡(2)は、狭山池(大阪府大阪狭山市)の北側に位置する遺跡である。今回の調査区では、狭山池の堤体を利用した古墳時代の窯跡(灰原)や、畦畔遺構などが検出されている。今回の花粉分析調査は、畦畔遺構での栽培植物の推定や、同時代の狭山池周辺の自然環境の推定などを目的として、川崎地質株式会社が狭山池調査事務所の委託を受けて実施したものである。
分析試料は、図284に示す2地点で採取した。それぞれの地点での試料採取層凖は、図285、286の花粉ダイアグラムに示す。No.1地点試料No.5、6、No.2地点採取試料No.1、2、3の採取層凖が、古墳時代の畦畔あるいは床土と推定できる層凖である。
分析方法は渡邉(1995)に従った。また分析結果を図285、286の花粉ダイアグラムに示す。花粉ダイアグラムでは計数した木本花粉を基数にし、検出できた種類をすべて百分率によりスペクトルで表した。
花粉分析結果から以下のように花粉分帯を行った。
マツ属(複維管束亜属)、アカガシ亜属が高い出現率を示すほか、モミ属、ツガ属、コウヤマキ属、スギ属、コナラ亜属を伴う。草本花粉の出現傾向から、ガマ属−ミクリ属が高い出現率を示すa亜帯(試料No.1、2)と、イネ科(40ミクロン以上)が高い出現率を示すb亜帯(試料No.3、4)に細分した。
マツ属(複維管束亜属)が高い出現率を示すほか、アカガシ亜属を伴う。草本花粉では、I帯に引き続きイネ科(40ミクロン以上)が高い出現率を示す。No.2地点試料No.3ではアカガシ亜属がほとんど出現しないこと、No.1地点試料No.5、6とNo.2地点試料No.1、2が同層凖であることから、II帯をa亜帯(No.1地点5、6、No.2地点試料No.1、2)、b亜帯(No.2地点試料No.3)、c亜帯(No.1地点試料No.4、5)に細分した。
マツ属(複維管束亜属)が高い出現率を示すほか、スギ属を伴う。草本花粉ではイネ科(40ミクロン以上)のほか、アブラナ科が高い出現率を示す。
No.1地点試料No.5、6層凖、No.2地点試料No.1、2、3層凖は、出土遺物から古墳時代に堆積したと推定されている。
またI帯の花粉組成は、マツ属(複維管束亜属)、アカガシ亜属が高い出現率を示すほか、モミ属、ツガ属、コウヤマキ属、スギ属、コナラ亜属を伴うなど、泉北丘陵北部に位置する伏尾遺跡での古墳時代の花粉組成(川崎地質株式会社、1992)と類似し、古墳時代に堆積した可能性がある。
No.2地点試料No.6層凖は、出土遺物から室町時代以降に堆積したと推定されている。一方この層凖の花粉組成は、マツ属(複維管束亜属)、スギ属、イネ科(40ミクロン以上)、アブラナ科で特徴付けられ、伏尾遺跡での近代以降の花粉組成(川崎地質株式会社、1992)と類似する。したがって、この層凖は室町時代から近代にかけて連続的に堆積した可能性もある。この場合、約0.3mm/年(およそ15cmの層厚をおよそ500年で堆積したと仮定)という堆積速度が推定できる。
今回の池尻遺跡(2)は、三方を泉北、富田林、河内長野丘陵(中世古・中川、1976)に囲まれ、さらに河内長野丘陵の背後には金剛、和泉山地が広がっている。今回の調査により検出された木本花粉化石の多くは、広くこれらの地域からもたらされたと考えられる。
花粉組成を植生の垂直分布に当てはめてみると、各丘陵あるいは山麓、山腹には、アカガシ類を要素とする照葉樹林が分布していたと考えられる。またアカマツ(マツ属(複維管束亜属)には、アカマツ、クロマツ、およびこれらの雑種のアイグロマツがあるが、現在のマツ属の分布から、アカマツと推定できる。)などを要素とする二次林が分布していた可能性もある。一方金剛、和泉山地の山腹から山頂には、アカマツ、モミ、ツガ(モミ属、ツガ属には亜寒帯要素の種も存在するが、現在の調査地周辺の地理環境および分布状況から、中間温帯林要素のモミ、ツガと推定した。)、コウヤマキ、スギ(コウヤマキ属、スギ属は本邦産現生種では一属一種であることから、コウヤマキ、スギと推定した。)などを要素とする中間温帯林が、山頂にはブナ(イヌブナの可能性もあるが、現在の分布域からブナと推定した。)、ミズナラ、カシワ(ここでのコナラ亜属には、二次林要素のコナラ、クヌギ、アベマキなどの可能性もある。)などを要素とする冷温帯林が分布していたと考えられる。
またa亜帯期では、遺跡内にガマ属−ミクリ属などが繁茂する湿地あるいは沼が広がっていた可能性がある。さらにb亜帯期では、遺跡内で稲作が行われ、ソバやマメ(ソラマメ属類似が検出できた。畑作跡でこのタイプがしばしば出現し、自然堆積物ではほとんど見られないことから栽培に由来すると考えた。)の栽培も行われていたと考えられる。
b亜帯でのアカガシ亜属の減少、試料No.3、4でのマツ属(複維管束亜属)の増加が、植生の変化によるものか、堆積状況の変化によるものか、今回の結果からは判断できなかった。このことは、今後の遺跡内でのデータの蓄積、および花粉帯の詳細な時期決定、他地域との比較などにより明らかになる。
各丘陵あるいは山麓、山腹の照葉樹林は分布を縮小し、アカマツを要素とする二次林が分布を拡大したと考えられる。一方金剛、和泉山地の山腹から山頂では大きな変化はなく、アカマツ、モミ、ツガ、コウヤマキ、スギなどを要素とする中間温帯林が、山頂にはブナ、ミズナラ、カシワを要素とする冷温帯林が分布していたと考えられる。
遺跡内では稲作が行われていたと考えられる。また畦畔の遺構と直接結びつくもの(畑作作物)として、ソバの栽培が推定できる。
各丘陵あるいは山麓、山腹には、アカマツを要素とする二次林が広く分布していたと考えられる。また金剛、和泉山地の山腹には現在見られるようなスギの植林が行われていたと考えられる。III帯高率となるアブラナ科花粉は、藤田ほか(1991)の条件を満たすことから、栽培に由来すると考えられる。したがって遺跡内では、稲作や、アブラナの栽培が行われていたと考えられる。
今回の調査から以下の事が明らかになった。