狭山池 埋蔵文化財編page44 [第3章]
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第3節 狭山池出土木樋の年輪年代

奈良国立文化財研究所 埋蔵文化財センター 発掘技術研究室長 光谷拓実

[はじめに][東樋遺構][中樋遺構]

1 はじめに

大阪府大阪狭山市にある狭山池は、日本最古の溜池である。狭山池の名は「古事記」や「日本書紀」にも登場し、その築造は五世紀ごろのこととされてきた。狭山池は東西の段丘の間を流れる旧天野川を塞き止め溜池としていたもので、堤の長さは500m、高さ15mの巨大なものである。狭山池は、築造後幾度となく災害にあい、その都度大改修がおこなわれてきた。なかでも奈良時代の名僧行基によっておこなわれた改修はもっとも有名である。平成元年以降、実施されてきたダム化工事に伴って、狭山池調査事務所が本格的な発掘調査をおこなった結果、多くの新事実が明らかになった。狭山池の発掘調査では、北堤付近において中樋遺構西樋遺構東樋遺構の3つの樋の遺構が検出された。中樋遺構では、大正時代まで使用されていた尺八樋の最下段が出土した。これは慶長13年(1608)片桐且元が改修した際に設置されたものである。西樋遺構は、中樋同様に慶長の改修の際に設置されたものであり、構造船の廃材が大量に転用されていた。東樋遺構は、もっとも東で発見された遺構で長さ70m以上のが上下2層になってそのまま残っていた。下層の樋は築造当初のもの、上層の樋はやはり慶長の改修で設置されたものである。

上記3つの樋のうち、東樋中樋に使われていた部材の年代測定をおこなったのでその概略について報告する。

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2 東樋遺構

東樋下層樋管は、コウヤマキの丸太材直径60cmの内側をU字状にくり貫いたもので、総数9本の樋管を連続していた。東樋下層遺構の池側取水部においては築造当初の樋の先端部を切断し、補修がおこなわれていた。年代測定用の試料はコウヤマキの樋管のなかで一部に未加工部分が残っていたものが5本あり、それぞれ直径5mmの棒状標本を採取した。池側のヒノキの補修材からは辺材部が完存していたもの1点、辺材部が2.2cm普通、ヒノキの平均辺材幅は3cm残っていたもの1点を選定、総数7試料を採取した。これらの年輪年代は樋管5本の伐採年がいずれも616年(推古24年)、補修材2点のうちの1点の年輪年代は726年と確定した。

以上をまとめると、下層の樋管には616年に伐採された木が使われていたことから、狭山池の築造年代は五世紀代ではなく七世紀前半であることが確実となった。このことから、五世紀代の河内平野の大開発と結びつけてきた見方は、否定された。また池側の補修材の1点は、奈良時代大改修の際に使われた材とみてよかろう。もう一点の伐採年からは、記録にはないが9世紀の前半にも改修のあったことが明らかになった。

一方、東樋上層遺構下層遺構の直上にあって、おもにヒノキの厚い板材を箱形に組み合わせた構造となっていた。このの長さは73mあり、取水部、樋管、排水部ともすべて存在していた。年代測定用の試料は、ヒノキの蓋材のなかで辺材部が完成していたもの2点を選定した。これら2点の伐採年は、1554年1600年と確定した。伐採年は異なっているが、いずれも慶長13年の改修の時に使われた材とみてよかろう。ちなみに上下2層の年代差は約1000年、築造当初の樋本体が長年壊れることなく機能していたことになり、当時の土木技術の水準の高さをうかがい知ることができる。

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3 中樋遺構

この遺構では、護岸に伴う部材1点の年代測定をおこなった。材種はヒノキで辺材部は全く残っていなかった。この年輪年代は1566年と確定、これに削除された年輪層数を加算することを考えると、これまた慶長13年(1608)の時の改修材とみてよかろう。

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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所