狭山池からは多くの樋が出土している。その詳細は第2章において報告した通りであるが、本節ではそれらの復元を行うとともに、樋の系譜をたどり狭山池の樋をわが国の農業土木史のなかに位置づける作業を行いたい。
樋は堤、洪水吐(除)とともに溜池の根幹をなす施設である。現在の溜池においては近年の改修工事の結果、樋はコンクリート管や金属管に伏せ替えられ、また取水部もハンドル式のものが大半となっているが、少し以前までの溜池では伝統的な樋が利用されていた。以下、最近まで残存していた溜池の樋や、発掘事例、文献からの知見などを合わせて樋の類型をまず設定したい。
樋は取水部、樋管、排水部から構成される。このうち発掘によって出土するのは大半が樋管の部分であり、他の部分が発掘されることはまれである。この点、取水部が多く出土している狭山池の事例は貴重である。取水部は大きく、一段だけの底樋型のものと、樋管に竪樋(斜樋)を取り付け、竪樋にいくつかの樋穴を設けた尺八型のものに分けられる。底樋型の場合、樋穴は樋管の上部にあけられそこに男柱がささる型式のものがもっとも多い。男柱は鳥居型のもので支持されるのでこれは鳥居建と呼ばれている。このほか前面に水門を持つものもみられる。尺八樋は竪樋にあけた穴に栓をするものがよくみられるが、狭山池の近世の尺八樋はこの栓を水門式にしたものである。この型式のものは狭山池をはじめ満濃池など大きな溜池に多い。なお堤を開削して水門を設置する型式のものは韓国の溜池では碧骨堤などでみられ、またわが国においても潮堤や河川堤防などにおいては存在するが、溜池においてはほとんどみられない。なお取水部は大半が木製であるが、鳥居建の笠木(男柱を支える横方向の木)を石で造ることが多く、また尺八の斜樋を石や土管などで造ることがある註1)。狭山池の中樋遺構から出土した石樋は取水部を石で造ったものである。
樋管は木製のものが大半で、U字型、O字型、箱型の3つの型式がある。東樋下層遺構でみられたものは典型的なU字型の樋管で、丸太材を断面の上から3分の2程度のところで割り、内部をえぐってU字管状にしたものに、板材による蓋材をかぶぜたものである。また丸太を半切し双方の内部をえぐって再び併せて樋管としたものは、最近まで多くの溜池で利用されており、今回の調査でも池尻城跡で出土している。この形態をO字型と呼びたい。この型式は材木を半切したものだけでなく、土管で造ったものもある。文献にも「土樋」註2)「石樋」註3)などの表現がみられる。量的に圧倒的に多かったのはやはり木製の樋管であったと思われる。次に板材を組み合わせて釘などで接合したものを箱型と呼びたい。材の組み合わせ方にはさまざまな類型がある。狭山池では東樋上層遺構、中樋遺構、西樋遺構などの樋管が箱型である。
排水部は池の中から樋を通って放出される水の圧力を弱めるために桝型の形態を持つものが多い。狭山池の東樋下層遺構ではこの桝型がみられる。また樋の出口と水路のあいだに高低差がある場合には滝のように水が吹き出すことになる。昭和の工事以前の狭山池中樋や、香川県の満濃池では吹き出す水で虹ができたほどである。しかしながら検出例も少なく類型化するにはいたっていない。
狭山池から出土した樋の復元案について、時代の古いものから順に述べることとしたい。
東樋下層遺構の樋管部材の材木は616年に伐採されたことが年輪年代測定法によって明らかにされており、堤との層位関係からみても狭山池築造時に埋設された樋管であることが確実である。残念ながら樋管2の上流側先端部は切断されており、そこに奈良時代に樋管1が接続されているために、この時期の樋の取水部を復元することはできない。ただ他の出土例や奈良時代の東樋下層遺構と比較すれば、底樋型で鳥居建ての構造であったことは間違いがないだろう。この時期の堤防の高さは中樋地点では74.4m程度であり、水面はそれより約1m低く73.4m程度であったと考えられる(第6節参照)。東樋下層遺構の樋管の上端の標高は約70.5mであり、男柱の長さは最低でも3m以上は必要であったことになる。樋管は先に述べた通りU字型で、蓋板はほとんどの部分で長い板材を利用している。また樋管どうしは、上流側の材が上に来るように双方を加工して接続している。場所によっては接続部の両側に柱状に材木をたてている。蓋材も同様に2材がかみあうように加工している。排水部には桝型が設置してあるが樋管との落差はほとんどない。
東樋下層遺構は奈良時代の天平宝字6年(762)に池側に拡張し、新たに取水部を設けている。取水部は図319のように土留と上部構造、下部構造に分類できる。土留は樋管の両側に建つ計8本の丸太柱と取水部の周囲をコの字型にとりまく板材からなる。柱は樋の拡張工事を実施する際、池内に堆積していた土が樋の方に流入するのを防ぐ目的のものと思われ、当初は柱の間に板材が置かれていたと考えられる。樋の完成後、板材は撤去されたが、柱はそのまま残され堤の土がその上に盛られたと思われる。コの字型に置かれた板材のうち堤防側のものはおそらく堤体の土が取水部に流入するのを防ぐ目的で設置されたものであろう。つまりこの板材の箇所まで堤体の土が被覆していたと考えたい。また側面の板材は溜池の堆積物が取水部側に流れてくるのを防ぐ目的のもので、樋の使用時の状況を意識して設置されたものであろう。上部構造および下部構造が取水部の心臓部である。樋管の先端のえぐりはやや小さくなっている。この部分から取水した可能性が考えられないわけではないが、底樋において前方から取水すれば樋管はまたたく間に土砂によって詰まるのが普通であるので、やはり上方にあけられた穴から水を入れたと考えておきたい。この場合、樋穴の上には男柱が設置されなければばらないが、問題はこの男柱の長さである。中樋地点の堤体断面調査によればこの時期の堤防の標高は78.5m程度であり、水面の高さはこれより1.8m低く76.7m程度であることが推定される(第6節参照)。東樋下層遺構の樋管上端の標高は70.5mであるから、男柱の先端を水面上に出すためには、最低でも6.2m以上の長さの男柱が必要となる。通常よくみられる2本柱の鳥居建ではこのように長大な男柱を支持するのは困難であるため、復元案としては樋管の先端部に残存していた4本の柱に注目して図320、図321のようなものを考えている。樋管の蓋板の止め方については残存部分の形状から、短い材を利用してそれを2本の角材で押さえ、さらにそれを横方向の板材で押さえる型式であったと思われる。この蓋材に穴をあけたのであろう。ただ上部構造の高さが随分高いために水に潜らずに男柱の上下をするのは困難であったことが予想される。復元案では点線で示しておいたが、中間付近にもうひとつ梁を設置すれば、男柱は左右せず、上下できる。ただしこれには何の根拠もない。この復元案を採用した場合、樋管の先端よりさらに前方に2本の板材が延びることとなるが、これは中樋や西樋など近世の樋でもみられたハの字型の材と同じく、水流を制御する目的のものであろう。
中樋遺構から出土した石棺群は僧重源が建仁2年(1202)に狭山池を改修した際に伏せた石樋であると考えられる。また昭和改修の時には堤防の下流側で計6基の石棺および1基の石材が出土しているが、これも重源の石樋の一部としてよいだろう(石棺Aだけは樋管に沿った上流側の箇所において出土している)。『南無阿弥陀仏作善集』には重源の改修について「臥石樋事六段云々」という記載がある。六段の「段」とはこの場合長さを示す単位と考えられる。1段は6間であるから6段は約65mということになる。この長さは現在の狭山池の堤の基底幅にほぼ等しく根拠のない数字とはいえない。しかしながら現在狭山池から出土している石棺をすべて主軸方向に連結しても全長は33m程度にしかならない。もちろん後世持ち去られたり、破壊されたりした可能性もあり、検出数がそのまま当初のものとは限らないが、建仁改修当時に樋の全長すべてが石棺からなっていたとは考えにくい状況である。このように主として出土した石棺の数の問題からここでは特に水圧を受けやすい樋の取水部および排水部付近だけに石棺を利用し、真ん中は木製の樋を利用したと考えたい。このように考えれば、昭和の改修時に排水部付近において出土した石棺、あるいは今回の上流側で出土した石棺は、もちろん慶長の改修などで多少の移動はあるとしても、ある程度重源改修時の原位置を保ったものであると考えられる。石棺はおのおの3〜5トンの重量を持ち、長距離の移動は現在でも困難をきわめるという物理的な事情も先の推論の前提にある。以下の考察では重源の改修時においても、取水部付近で検出されたものは取水部で、また排水部付近で検出されたものは排水部で利用されていたということを前提としたい。
昭和改修時には末永雅雄氏が「石造物発見図」を作成し、この図は『狭山池改修誌』『池の文化』などに掲載されている註4)。この図には木製の樋は描かれず、石棺のみを描いたものとなっているが、『池の文化』などに掲載されている写真や断面図を照合すると、石棺は中樋遺構樋管の下流側先端部において底板、側板の代替として用いられていたようであり、木製樋管の断面との高さの差は蓋板との間に板材を挟むことによって調整していたようである。また石棺のうちいくつかは蓋板の重しとしても利用されていたことが写真などからうかがわれる。このような状況は慶長の改修で生じたものと考えられるが、石棺をあたかも先述のU字型の樋管のように利用する方法はおそらく重源の改修時のものを踏襲したのであろう。さてそれならば建仁の改修時に石棺はどのようにして配列され石樋として再利用されたのであろうか。石棺そのものは慶長の改修時に移動しており、発掘による知見からそれを復元することは困難である。ただ石棺7のみは底部に二つの丸い穴があけられていることから、現在の樋との比較によって、これが樋の上流側先端に上下さかさまの状態で置かれ、この穴に上から男柱がささる状態であったことが推定できる。二つの穴のうち一方は小口にまで穴が拡張しており、清掃用にあけられたものである可能性が強い。普段は栓などが入れられていたことが推測できる。普段使用されていたのは底部中央の穴であろう。また中樋遺構の基礎として地面に敷かれていた石棺10は他の家形石棺とは異なり、まったく扁平な板石であるが、この石は重源改修時においても近世と同様に樋の基礎としての役割を果たしていたと考えたい。それ以外の機能がこの形態からは考えにくいからである。そして石棺10のうえに石棺7が上下逆さまの状態で置かれたものを、重源改修時の「石樋」の取水部の復元案としたい。鎌倉時代の段階では尺八樋の存在は想定しがたく、とすればこの石の樋管の上には男柱が立ち、またそれをささえる鳥居状、あるいは櫓状のものが存在したはずである。中樋地点の堤体断面調査の結果から、重源の改修時には堤体の高さは標高79.2m程度、また水面の標高はそれより2m低い77.2mと考えられる。重源の改修時の「石樋」の上面のレベルはもちろん不明であるが仮に近世の中樋遺構の樋管の上面と同じ(69.0m)とすると、先端が水面上に出るためには、男柱は最低で8.2m以上の長さであったこととなる。石棺を用いた樋管の埋設と同様、この上部構造の建設も相当な大工事であったと考えられる。重源狭山池改修碑には物部為里など当時一流の大工が工事に参加したことが記されている。彼らの技量を考えればこのような上部構造の建設は不可能ではなかったと思われる。
石樋取水部の構造を先のように復元すると、石棺7の内高(39cm)と内幅(54cm)がこの時代の樋管の標準的な通水断面ということになる。他の部分においてはこの断面より内高や内幅が大きくなることはあっても、小さくなることは考えにくい。断面が小さくなった部分では水の流れが阻害され、樋管の破損を招くからである。以上のように前提条件を設定すれば石棺19においては石棺1、石棺5、石棺6以外のものは樋管として使用されていた可能性が強いといえる。石棺1および6は現状での破損が大きく重源改修時には樋管としての条件を満たしていた可能性があるが、石棺6は内面の掘りこみが極端に浅く、木などによって側板を嵩上げしないかぎり樋管としての使用は困難であったと思われる。今回中樋遺構において検出された石棺は大半が家形石棺の身の部分であり、その小口の部分がくり抜かれていた。その形態から考えてこれらの石棺はU字型樋管であるとすれば、当然その上に蓋板が載るはずである。蓋と思われる石材は中樋遺構からは検出されておらず、取水部付近の蓋板には木材が使用されていたと考えざるをえない。また石材どうしを組み合わせるよりも、材木と石材を組み合わせるほうが水密のためには有効であろう。蓋材としては東樋下層遺構で検出されているような長い板材のものも想定できるが、この型式のものは時代が下がるほど少なくなるため、ここでは短い板材を横方向に並べた型式の復元案としている。先述の通り石棺7の内高である39cmを樋管断面の高さであると仮定すると、他の石棺の内高とは10cm前後の差が生じる。蓋板の形態は石棺の上に載る形であったと思われるが、近世の中樋遺構の蓋板のように、その一部が少し削り残されて石棺の内部にはまる形のものを想定すると、この部分において石棺の内高の差を調整できることとなる。また石棺の内底面を一列にあわせた場合、石棺の底部は相当凸凹になることが想定される。おそらくは基盤の土のレベルを切り盛りしてこの起伏を調整したものと考えられる。なお図325で示した復元案のうち石棺7および10以外の配列の順序については、なんら根拠はない。破損が小さく特色的な石棺を任意に配列しただけのものである。石棺同士、あるいは石棺と材木の接合部においては当然水漏れが予想される。石棺には漆喰の痕跡などは一切みられなかったので、外周に粘土などなどを巻いて水漏れを防いだものと考えたい。
排水部の石棺についてはいずれも内高が先に述べた石棺7の39cmよりもはるかに小さく、単独の石棺では樋管としての機能を果たしえなかったことが明らかである。末永雅雄氏は『狭山池改修誌』のなかで家形石棺の蓋は、石樋(石棺)の上に載せられて使用されていたという考えを述べているが、石棺Cをほぼ内幅の等しい石棺Cの上に載せた場合、内高は約42cmとなり、先に基準とした39cmの内高にほぼ近似することとなる。末永雅雄氏の記載によるとこの工事の時には破壊された石棺もあったようであり、これも含めると排水部においては3〜4組の石棺の身と蓋(あるいはそれに替わるもの)の組合せによって樋管が構成されていたと考えられる。また取水部と排水部にはさまれた樋管の部分については、木製であったと推定されることを先に述べたが、この部分については遺物が残存しない以上復元は不可能である。ただ中世の溜池樋管の一般的な形態を考えると、U字型の樋管の上に、短い板材の蓋板を横並べにした形態のものであった可能性が高いだろう。
| 写真106 石棺7 | 写真107 石棺10 |
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| . | 長さ | 幅 | 内高 | 内幅 |
|---|---|---|---|---|
| 石棺1 | (201.5) | (127) | ? | 89 |
| 石棺2 | 227.0 | 122.0 | 42〜45 | 69 |
| 石棺3 | 222.0 | 130.0 | 51 | 70.5 |
| 石棺4 | 226.0 | 113.0 | 43.5 | 70.5 |
| 石棺5 | 198.0 | 109.5 | 24.8 | 55.5 |
| 石棺6 | (134.0) | 138.0 | 36.9 | 75.0 |
| 石棺7 | 199.5 | 98.0 | 39.0 | 54.0 |
| 石棺8 | 244.0 | 119.5 | 43.5 | 57.0 |
| 石棺9 | 263.0 | 128.0 | 49.5 | 61.5 |
| (石棺10) | 259.0 | 160.0 | . | . |
| 石棺A | 214 | 102 | 13.5 | 66 |
| 石棺B | 223 | 135 | 12.6 | 58.5 |
| 石棺C | 186 | 102 | 30 | 55〜57 |
| 石棺D | 158 | 102 | 30 | 45〜50 |
| 石棺E | 167 | 75 | 24 | 50 |
| 石棺F | 180 | 112 | 20 | 53〜63 |
| 石棺G | ? | ? | ? | ? |
今回の調査で出土した中樋遺構・西樋遺構はともに昭和改修の際に撤去を免れた尺八樋の最下段であるが、中樋は上部が破損しており、西樋は後部が破損していた。近世には度々西樋、東樋の改修が行われたこともあって、いくつかの近世文書には樋の材料などが記載されている。特に享和3(1803)年7月に作成された「狭山池明細書」(田中家文書)は、樋の全体の状況がうかがえる好史料である。この史料と、「狭山池樋之図」(田中家文書、図326・327)を参照して作成したのが図328の西樋復元図である。尺八樋は上の樋から順に水を入れていくために、堤高の高い溜池で多く用いられた樋である。「狭山池明細書」などでは慶長改修の際に小和田惣右衛門・同久兵衛親子によって考案されたと記載されている。その真否は判断しがたいが、狭山池と同様に尺八樋が使われている万濃池のものは寛永3年(1626)、尾張の入鹿池のものは寛永10年(1633)に築造されており、文献であきらかな尺八樋としては狭山池のものがもっとも古いと思われる。出土した樋は破損が大きかったが部分的にはサイズのわかる箇所もあった。そこで遺構と「狭山池明細帳」および近世前期の史料である「河州狭山樋之帳」(寛永4年・1627)の四番樋の比較を試みたのが表32である。
これをみるとごく一部の数値を除いて、両史料よりも西樋、中樋ともに遺構のほうが随分と小さく、これらの史料の通りに改修されたわけでないことは確実であるWeb註1)。4段目の樋については慶長改修時に築造されたものが継続的に使用されたものと考えられよう。ただし3段目よりも上の取水部については近世に度々改修されたことが多くの史料に記載されているので、ここで参照した史料の数値はそれらの改修の結果を加味した数値と思われる。
| 写真108 西樋復元模型 |
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| . | 部材 | 「狭山池明細書」 (享和3年・1803) | 「河州佐山樋之帳」 (寛永4年・1627) | 出土遺構Web註1) |
|---|---|---|---|---|
| 西樋 | 樋管 内法(上口) | 内法 2尺2寸2分 | 内法 3尺 | 内法 2尺3寸3分(70cm) |
| 樋管 座敷板 | . | 長さ 3間半 巾 2尺3寸 厚さ 7寸 | 長さ 不明 巾 1尺5寸3分(56cm) 厚さ 7寸3分(22cm) | |
| 樋管 側板 | . | 長さ 2間 巾 2尺7寸 厚さ 7寸 | 長さ 不明 巾 2尺3寸3分(70cm) 厚さ 6寸(18cm) | |
| 樋管 砂蓋 | . | 長さ 4尺5寸 巾 5尺 厚さ 7寸 | 長さ 3尺8分(114cm) | |
| 摺柱 | 長さ 1間2尺5寸 巾 1尺4寸5分 厚さ 7寸(*2本) | 長さ 2間 巾 8尺 厚さ 6寸5分 | . | |
| 先柱(おきの柱) | 長さ 2間2尺5寸 7寸5分角(*2本) | 長さ 2間 巾 8寸 厚さ 7寸5分 | 長さ 1間4尺7寸(322cm) 巾 5寸(15cm) 厚さ 3寸7分(11cm) | |
| 長押 | . | 長さ 1間半 6寸5分角 | 不明 | |
| 前壁板 | 長さ 6尺 巾 1尺 厚さ 3寸(*9枚) | . | 長さ 4尺5寸3分(136cm) 巾平均 1尺5寸(45cm) 厚さ 2寸(6cm) | |
| 壁板 | 長さ 9尺 巾 1尺 厚さ 3寸(*9枚) | . | 長さ 不明 巾平均 1尺8寸7分(56cm) 厚さ 2寸(6cm) | |
| 中樋 | 全長 | . | 長さ 2間 | . |
| 樋管 内法(上口) | 内法 2尺2寸2分 板厚 9寸5分 | 内法 3尺 | 内法 1尺6寸(48cm) | |
| 樋管 座敷板 | . | 長さ 3間 巾 2尺6寸 厚さ 7寸 | 長さ 不明 巾 1尺5寸(45cm) 厚さ 4寸5分(13.5cm) | |
| 樋管 側板 | . | 長さ 2間 巾 2尺7寸 厚さ 7寸 | 長さ 不明 巾 1尺3寸(39cm) 厚さ 6寸(18cm) | |
| 樋管 砂蓋 | . | 長さ 4尺5寸 巾 5尺 厚さ 7寸 | 長さ 2尺7寸5分(82.5cm) 巾 不明 厚さ 不明 | |
| 摺柱 | 長さ 2間2尺 巾 1尺4寸5分 厚さ 7寸 | 長さ 2間 巾 1尺4寸 厚さ 2寸5分 | 長さ 不明 巾 1尺5分(31.5cm) 厚さ 5寸(15cm) | |
| 先柱(おきの柱) | 長さ 2間2尺 7寸5分角 | 長さ 2間 巾 8寸 厚さ 7寸5分 | 巾 9寸(27cm) 厚さ 4寸(12cm) | |
| 長押 | 長さ 9尺5寸 6寸角 | . | 不明 | |
| 前壁板 | 長さ 6尺 巾 1尺 厚さ 3寸(*9枚) | . | 長さ 3尺2寸5分(97.5cm) 巾 不明 厚さ 不明 | |
| 壁板 | 長さ 9尺 巾 1尺 厚さ 3寸(*9枚) | . | 長さ 6尺(180cm) 巾 1尺(30cm) 厚さ 4寸5分(13.5cm)(枚数不明) |
東樋上層遺構については、取水部、樋管、排水部のすべてがほぼ完全な形で出土しておりほとんど復元の必要はない。東樋上層遺構は西樋、中樋が尺八樋であるのに対して一段だけの底樋型であるために取水部の構造は両樋とは少し異なる。最大の差は西樋、中樋は後側の2本の柱の間に樋蓋がはまる形式であったのに、東樋では前の2本の間に樋蓋が入っている。このために東樋では取水部の内部まで樋管が伸びており、その砂蓋の上面に樋穴があけられている。またこれとも関連するが、西樋においては取水部の前面にも壁板が張られ、また中樋でも遺構には残存していないものの近世文書の記載によれば同様の状況であったと思われるのに対して、東樋では前面には壁板は張られていない。
昭和の改修で中樋、西樋など近世に造られた木製の尺八樋はすべて撤去されて、西樋の場所にはハンドル式の樋が、また中樋の場所には取水塔形式の樋が新たに設置された。『狭山池改修誌』にはこの工事の設計図面が掲載されているが、縮尺が大きく、詳細の解読は困難であったが、大阪狭山市役所所蔵の資料の中に青焼きの図面があったため、これをトレースしたものを掲載しておいた。取水塔は今回の平成の大改修まで多くの人々に狭山池のシンボルとして親しまれてきたが、ダム工事に際しては撤去されることとなった。しかし景観的に狭山池と一体のものであり、また近代の土木遺産としても重要なものであるため保存することとなった。1994年に取水塔をワイヤーソウで3つに切断して取り上げ池内に仮置きし、1998年には(仮称)狭山池ダム資料館内に搬入して原型に復して、将来的には中樋遺構などと一体的に展示する予定であるWeb註2)。
| 写真109 取水塔全景 | 写真110 取水塔の橋 |
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狭山池からは以上のように各時代の樋が出土している。これを他の発掘成果と照合しながら、溜池の樋の系譜を考え、狭山池の樋をわが国の農業土木の歴史の中に位置づける作業を以下行いたい。
わが国の灌漑施設では溜池の誕生以前から木樋が利用されている。管見の範囲ではもっとも古い樋の出土例では大阪府山賀遺跡で検出された弥生時代前期の木樋である註5)。この樋は河川の自然堤防を掘削して設置されたもので、樋管は半裁した丸太を刳り貫いたもの、蓋は板材である。ただし両者とも土圧で相当な破損を受けている。樋管はU字型か、O字型か判断が困難だが、蓋が板材であったことを考えればU字型の可能性が高い。弥生時代の遺跡からはこの他にも十数例の木樋の検出例がある。多くは自然河川から水路への引水、あるいは水路から水田への引水の機能をもって設置されている。大阪府池島・福万寺遺跡の木樋の場合註6)は、自然河川にともなう自然堤防に溝を設置し、その中にヤナギとアカガシの丸太を刳り貫いた樋管を設置したもので、構造としては山賀遺跡の木樋と類似している。この樋管は設置後ほどなく砂つまりのために廃絶したようで、その後は素掘りの溝から引水している。この例からもわかるように弥生時代の木樋は自然河川や水路からの引水に使用されており、機能としては素掘りの溝を補強するものであった。岸部が自然堤防などで深い掘削が必要な場合に、単なる素掘り溝では崩壊の可能性が大きく木樋が用いられたと思われる。この意味で原始的な木樋の機能は今日のU字溝と同様であり、掘削が大きい場合にはそれを埋め戻す必要が生じ、樋に蓋が設けられたと考えられる。この段階の樋の取水方法は前面の水をそのまま樋の中に飲み込む方法であった。
大規模な堤と樋をそなえた溜池としては現在のところ狭山池が最古のものであるが、古墳時代中期以降には小規模な溜池が登場し、木樋も検出されている。近年あいついで発見されたこれらの遺構については祭祀遺跡やトイレとしての性格も考えられており、必ずしも灌漑施設の範疇でとらえられるものでもないが、樋の技術的な系譜を考える上では無視できない。奈良県南郷遺跡からは谷川をせきとめた小規模な池とそこから引水する3本の木樋が検出されている註7)。樋は堤の下に埋め込まれたものではなく池からあふれた水を導くようになっており、いわば余水吐の機能を担っている。したがって蓋もなかったようである。2本目の木樋には沈殿槽のような掘りこみがあり、また覆屋状の遺構の存在も想定されるため調査担当者はこの遺構全体の性格を水を用いた祭祀と考えている。時代的には5世紀中葉のものである。木樋こそ検出されていないが、同種の遺構としては弥生時代のものとして福岡県の三苫永浦遺跡の池状遺構があり、南郷遺跡とほぼ同時期のものとして東大阪市西ノ辻遺跡で検出された池状遺構がある。これはやはり谷川から水を引き、5m四方、深さ0〜80cmの池を上下に4つ並べてつくり互いを木樋で連続したものである。樋はやはりオーバーフローする水だけを導くものであり、たまった水全体を利用できる構造ではない。また藤井寺市の狼塚古墳からは木樋を象った埴輪が出土している。この樋のまわりには壁が回っており、南郷大東遺跡などの性格を考える上で示唆に富む。発掘担当者はこれを浄水のための施設で用いられた樋と考えている。
これらの諸遺構で出土した木樋の性格は現在のところ不明確といわざるを得ない。ただ樋の設置技術や堤との関係においては、狭山池や益田池のような樋と堤を備えた本格的な溜池とは大きな差を認めておくべきであろう。
以上のように木樋を設置する技術は弥生時代中期に既にみられ、本格的な溜池誕生のむしろ前提となる技術であるといえよう。溜池の誕生は弥生時代以来の樋の製作技術と古墳時代になってはじめてわが国に導入された堤を築造する技術の結合として評価すべきである。狭山池において実施した北堤断面の観察調査では合計12回以上の盛土の痕跡が観察されているが、築造期の堤から奈良時代の堤までは土を10〜15cm程度盛土したのち土の表面に枝についたままの葉を一面に敷きならべる敷葉工法がみられる。また築造期の堤防では土を植物質のものでくるんだ土嚢状のブロックを斜面などに並べる技術も観察されている。前者の敷葉工法については大阪府八尾市の亀井遺跡、北九州の水城でも検出されている。工楽善通氏はこの工法が中国や朝鮮半島でもみられることから、これを渡来系の人びとによってわが国にもたらされた技術と評価している註8)。このような新しい築堤技術に、弥生時代以来はぐくまれてきた木工技術が結びついて初めて巨大な溜池の築造が可能となったのである。
狭山池が7世紀の初めに築造されたことはこれまで本書で何度も述べてきた通りであるが、7世紀以降溜池は少しずつわが国の風土に腰をおろしはじめ出土例も増加する。飛鳥時代の事例としては飛鳥の島宮遺跡で検出された石組の園池にともなう木樋がある註9)。この池は7世紀前半のもので日本書紀推古34年条にみえる蘇我馬子邸の池に対応する遺跡と考えられるが、樋はU字型の樋管と板材の蓋を持つ。蓋の端部には樋穴があけられており、また樋をはさむように2本の柱が建ち、先に説明した鳥居建による取水施設が伴っていたようである。狭山池東樋下層遺構も規模の差こそあれほぼ同様の構造を持つ。奈良時代の溜池に伴う木樋の事例としては大阪府鶴田池東遺跡、兵庫県宅原遺跡、愛知県室遺跡のものなどが知られている。鶴田池東遺跡の樋管は丸太を刳り貫いた樋管の上に板材の蓋をのせたものであるが、陶製の取水部の一部が検出されているのが注目される。8世紀中葉から9世紀にかけて設置されたと考えられる註10)。宅原遺跡では樋だけではなく余水吐、堤などが一体的に調査されているが、築造時の樋はヒノキ材の丸太を刳り貫いたもので、その上にやはりヒノキ材の蓋板がかぶせられている。奈良時代前期に築造された溜池である註11)。また室遺跡からは何本かの大型の木樋が出土している註12)。小規模な溜池状の遺構にともなうものとみられるが、古いものは8世紀に設置されている。ヒノキ材の丸太を刳り貫いて樋管が作られているが蓋は検出されていない。狭山池東樋下層遺構の先端部も奈良時代のものであるが、やはりヒノキ材の丸太を刳り貫いた樋管をもっている。以上のように飛鳥・奈良時代の溜池の樋は、狭山池東樋下層遺構をはじめとして、いずれもU字型の樋管をもつ。木樋は先述の通り弥生時代に素掘り溝の強化を目的に発生したと考えられるが、古代の樋にU字型のものが多いのもその技術的な伝統を引くためであろう。
古代の樋のうち、まったく例外的な存在は福岡県太宰府市の水城で確認されている樋である註13)。水城は『日本書紀』天智3年条に築造記事がみられる防衛用の堤であるが、これまでの発掘調査の結果、図331のような取水部の復元案が示されている。樋管は板材を組み合わせて、カスガイなどで留めたもので先に述べた箱形の構造をしている。最近発掘された春日市の小水城でも同様の樋管が出土している。水城の築造には百済系の渡来人が関係したことが『日本書紀』などに記されているが、技術的な先進性にはその強い影響がみられるのだろうか。
溜池の築造技術には古代・中世を通じてそれほどの変化はみられない。狭山池では鎌倉時代に重源によって石製の樋管が設置されているが、他の事例と比較するとこれは異端に属する事例といえるだろう。ただしこの事例においても材質面での特異性はみられるが、樋管の構造はU字型であり、同時期の一般的な形態を踏襲している。益田池は弘仁13年(822)に築造されたことが「大和州益田池碑銘並序」などの史料によって知られているが、その樋管と思われるものが検出されている。この樋管の刳り貫き部は内幅60cmにも及び、狭山池東樋下層遺構を凌ぐ規模である。注目されるのは樋管以外にも樋管どうしの継手材や蓋板と思われる材が出土していることで、泉森皎氏はこれらの史料から図333のようにこの樋管の復元案を作成している註14)。この復元案は狭山池東樋下層遺構の両端部で検出されたものとほぼ等しく、奈良〜平安期の大型溜池の樋の標準を示すものといえる。樋管の形態は基本的にはU字型で、小規模なものは蓋板として長い板材を使用したと思われるが、狭山池や益田池のように大型のものでは短い板材を並べて蓋板としたのであろう。
狭山池においても全国的に溜池築造技術に大きな画期が訪れるのは近世初頭を待たねばならない。戦国時代に発達した鉱山開発や、建築、造船などの多様な技術がこの時期の灌漑技術に大きな影響を与えている。狭山池で慶長の改修が行われ、長く荒廃していた讃岐の満濃池が改修されたのもこの時期である。統一政権の誕生に伴ってこのような大型の灌漑施設が全国に続々と築造されていった。樋に絞って考えても、狭山池ではこの時期はじめて板材を組み合わせて巨大な釘によって固定した箱型の樋管(中樋遺構、西樋遺構、東樋上層遺構)や、尺八型の取水部(中樋遺構、西樋遺構)が登場する。これらは明らかに専門職人の手による仕事であり、この時期に灌漑施設の建設に従事する樋大工、黒鍬などの専門職人が誕生したことを示している。狭山池の樋では船材の再利用や舟釘、マキナワ技法の応用など明かに船大工が樋作りに関与した痕跡がみられる。箱型の樋管の導入によって長大な樋の築造が可能となり、溜池の規模は一挙に巨大化した。戦国時代に発展した諸技術が統一政権の誕生や鎖国の影響もあって内的発展に転じたのがこの時期であるといえる。もちろん溜池築造技術の進歩は、近世における爆発的な耕地の増大の前提となるものであった。
近世初頭には灌漑施設の大型化だけではなくその量的な普及もみられた。大型の溜池が築造されていく反面で、谷間に小規模な溜池が多く築かれていったのもこの時期である。表33は狭山池にすぐ東接する大阪狭山市岩室の溜池の築造年代一覧であるが、近世前期に主な溜池が成立していることがわかる註15)。また平野部には四周を堤防で囲んだ皿池がよく見られるが、このような皿池の起源こそ中世にさかのぼるものの、その多くが造られたのはやはり中世末から近世のことと思われる。図334は宮本誠氏によって明らかにされた奈良盆地の中央に位置する田原本町内の溜池面積の推移である註16)。元禄〜享保期に多くの溜池が造られていることがわかるが、狭山池の灌漑範囲である南河内においては築造時期のピークはこれよりも若干古くなると思われる。
樋管の設置技術からみると古代から中世に至るまではU字型樋管が主流であるが、近世に入ると箱型樋管が採用されるだけではなく、小規模な溜池では丸太を半切して内側をえぐり再び組み合わせたO字型の樋管が多く用いられるようになる。箱型樋管はその技術的な高さから船大工や建築大工などの系譜を引く専門職人(樋大工)によって作られたと考えられるが、O字型樋管はそれほどの技術を要するわけでもなく農民が自ら設置することが可能であったとみられる。近世初頭の溜池の大型化に対応する技術として箱型樋管や尺八樋が、また同時期の溜池の地域的・階層的普及に対応する技術としてO字型樋管が誕生したと考えたい。狭山池のすぐ北側の池尻城跡でも近世のものと思われるO字型の樋管が出土している(第2章第5節参照)。
| 池名 | 築造年代 |
|---|---|
| 濁り池 | 明応7(1498) |
| 北池 | 天正11(1583) |
| 尻屋池 | 慶長6(1601) |
| 上池 | 承応1(1652) |
| すっぽ池 | 不明 |
| 芦池 | 寛文1(1661) |
| 永谷池 | 正保2(1645) |
| 見取池 | 貞享3(1686) |
狭山池から出土した樋は年代的にもわが国の溜池の樋の歴史の全体をほぼカバーするものであり、また溜池の規模の巨大さから考えて、同時代の技術の中でも最先端を示すものと考えられる。以上の小論においては狭山池出土の樋の現時点での復元案と、樋の系譜について考えてみたが、樋をめぐってはさらに検討すべき事項が多く残されている。本論ではほとんど触れることができなかったが、木工技術が樋の築造技術に与えた影響には大きなものがあると考えられる。たとえば箱型樋管の誕生には、カンナや大鋸の存在が当然のことながら前提となるだろう。これらのことについては遺物の詳細な観察が必要であるが、現在、遺物は保存処理中であり果たせなかった。また東樋上層遺構では板に番号が書き入れられており、樋を造った職人集団の組織の存在が想定できるが、これらの樋築造の実際の担い手の問題は、文献の検討も含めて今後の課題である。幸いにも狭山池出土の樋は保存処理の後、(仮称)狭山池ダム資料館において展示される予定である。今後、モノに即した研究の進展がさらに期待できよう。