狭山池 埋蔵文化財編page47 [第3章]
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第6節 発掘成果からみた各時代の狭山池

狭山池調査事務所 市川秀之

[はじめに][各時代の狭山池の規模][狭山池築造以前][築造時の狭山池]
[奈良時代の狭山池][鎌倉時代の狭山池][慶長改修時以降の狭山池][小結]

1 はじめに

本報告書の第2章で報告した通り1987年の狭山池調査事務所設立以来、狭山池内外の発掘調査は継続的に実施されてきた。個々の発掘調査は工事の進捗にあわせて、年度毎に調査区を設定して実施したために、その成果には注目すべきものが多かったものの、概要を個別に報告するだけでは狭山池の歴史の全体像を表現しえないという問題がある。発掘調査成果を統合し、さらに同時に進められてきた文献史料の調査や、自然科学の調査の成果とも照合していく作業が、狭山池の全体像の理解には不可欠である。本項においては、報告書のまとめの意味もこめて、発掘調査からみた各時代の狭山池の復元作業を、下流の開発史とも関連づけながら行うこととしたい。

図335 狭山池内の等高線図(三田村宗樹「既存ボーリング資料のデータベース化と狭山池堆積物の分布状況」より), 図336 堤体高と余裕高の関係, 図337 北堤以北の旧流路(日下雅義『歴史時代の地形環境』所載図に加筆), 図338 慶長期の狭山池灌漑範囲, 図339 築造時の狭山池, 図340 堤体の高さと周辺地形, 図341 狭山池・太満池堤体の段丘の標高, 図342 昭和改修前の狭山池, 図343 慶長改修時の狭山池ikehense.pdf (PDFファイル 2.01MB)

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2 各時代の狭山池の規模

各時代の狭山池の規模を復元するためにはいくつかのデータが必要であるが、特に重要なのは各時代の北堤の高さであろう。この問題については北堤断面の調査によって、時代ごとの堤体の高さがほぼ明らかになっている。しかしながらさらに詳細に池の規模を復元するためには、狭山池築造以前の地表面の状況と、各時代の水面の標高を知る必要がある。前者については三田村宗樹氏が工事用に実施された膨大な数のボーリングデータを集成、解析して図335のような等高線図を作成している註1)。この等高線図はダム工事以前の池底の標高から池による堆積物を除去した数値を出して作成されたものである。この図は狭山池築造以前、あるいは拡張過程の狭山池の復元にとって非常に有効な情報を与えてくれる。また各時代の池の水位については、堤防の高さからある程度の推定が可能であるが、厳密な復元を行うためには池の洪水吐(除)の標高を知る必要がある。除は堤とは異なり、災害や改修を重ねるたびに前時代のものが破壊されていくので、発掘調査では情報を得ることは困難である。そこで本項においては、各時代の除の標高を考える資料として、現在の大阪狭山市とその周辺の溜池の堤体天端の高さと、余裕高(堤体天端の標高から除の標高を引いた数値)を調べ、堤体の高さを横軸に余裕高を縦軸に図336のようなグラフを作成した。溜池を造る場合、可能な限り最大限の水を貯めようとするのは当然であるが、除の高さをあまりに高くすると、洪水時に甚大な被害をもたらす恐れがある。度重なる災害の歴史の中で、堤防の高さと余裕高には経験的に一定の関係が生じることが考えられる。図336をみると両者にはおおむね直線で示したような相関関係があり、この関係は溜池の性格が歴史的に不変である以上、過去の溜池にも適応できると考えたい。なお大阪府の耕地課では、風による波が1m以内の溜池の場合、次のような式で溜池の余裕高を計算している。

余裕高(h2)=0.05H2+1.0m (5m以内単位以下切り上げ) H2:最高水深
最高水深は堆積物がないときには堤防の高さ(h1)から余裕高を引いた数字になるので、上記の式は次のように書き替えられる。
h2=0.05(h1-h2+1.0m h2=0.0476h1+0.952
この一次関数式で求められる直線を図336には点線で示しておいた。これをみると天端高が7m以上の溜池においては数値で求められる余裕高よりも随分安全をみて除の高さを設定していることがわかる。大型の溜池では災害時の被害も大きいためであろう。以上のように堤体の高さと余裕高想定値の関係が明らかになったので、狭山池についても各時代の堤防の高さが決まればグラフと照合することによって余裕高が求められることとなる。除の標高も同時に明らかになるので、その標高を先の図の等高線図で追い掛ければある程度各時代の狭山池の規模を明らかにすることが可能となる。もちろん池底については人工的な開削が想定できるが、この点は各時代の条件を考慮する必要がある。

以下の考察においては、発掘調査以前に発表されている日下雅義氏の研究註2)や、調査と同時期に発表された木村昌弘氏らの研究註3)を参照しながら、発掘調査で堤や樋などの様子が明らかになっている、狭山池築造時(6世紀)、奈良時代、鎌倉時代、近世初頭、近世末期および狭山池築造以前の様子を可能な限り復元することに努めたい。

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表34 各時代の狭山池
.天端高
標高(基盤高)
余裕高常時
満水位
発掘文献で確認できる施設下流の動向
除け
築造前-----小規模な水田
6世紀74.4(5.4)1.073.4東樋下層遺構(東除)沖積平野の開発
奈良時代78.5(9.5)1.876.7東樋下層遺構-太満池・段丘開発
鎌倉時代79.2(10.2)2.077.2中樋石樋-西除左岸の開発
近世初頭80.8(11.8)2.378.5中樋遺構
西樋遺構
東樋上層遺構
西除
東除
水路網の整備
近世末期82.8(13.8)2.780.1中樋・西樋西除・東除水下村の離脱
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3 狭山池築造以前

狭山池の築造以前には、旧天野川と三津屋川は現在の狭山池内において合流し、北流していたことは間違いがない。日下雅義氏は航空写真の判読や、ハンドオーガーによる地質の調査によって北堤以北の旧河道の流路を図337のルート1のように復元されている註4)。今回の調査で狭山池の北側で行った調査としては池尻遺跡(1)、(2)の調査があるが、これらの調査の結果によると、池尻遺跡(1)では図337のB調査区より西において厚い砂層が確認されているので日下氏のこの部分の復元はほぼ正確であるといえる。ただB調査区の箇所については狭山池築造直前には河川は埋まり水田が造られている。またC調査区においては庄内期の遺構が検出されておりしかも砂層はみられなかったので、川幅は復元よりもやや細かったと思われる。また北堤の直下にあたる池尻遺跡(2)においては①の地点よりも東において砂層が観察できた。①地点はちょうど日下氏が復元された河川の西端にあたる。また東池尻1号窯の箇所ではこのような厚い砂層はみられなかったので、この箇所においても概ね日下氏の復元は正確であるといえる。ただこのような沖積層では河道は何度も変更していることが予想される。狭山池内部の掘削工事では中樋の箇所よりも西側において旧河道が検出されているので時期によれば図にルート2として示したように、現在の蓮池の場所を通って北流する河川が存在した可能性がある。そして河川の東西に池尻遺跡(2)あるいは池尻遺跡(1)のC調査区・B調査区のような小区画の水田が河川の周辺に点在する風景を狭山池築造直前のものとして推定できる。

近世初頭に狭山池の灌漑範囲に含まれていた範囲を示したのが、図338である。この時期に狭山池の灌漑範囲はもっとも広くなっている。狭山池と下流の開発動向を考える時にはひとまずはこの範囲が考察の対象となろう。またこの地域のうち旧丹南郡については鋤柄俊夫氏による詳細な遺跡分布論が出されている註5)ので、これらの研究や大阪府教育委員会、(財)大阪府文化財調査研究センター、各市町村教育委員会から出されている報告書類を参照しながら、当該地域の開発の状況を考えていきたい。

7世紀初頭の狭山池築造以前にもこの地域においては、黒姫山古墳を始めとするいくつかの古墳や、須恵器窯、埴輪窯などの生産遺跡などが見られるが、集落遺跡に限定するとその数は東側の石川流域や、西側の石津川流域と比較して非常に少ない。西除川流域の弥生時代の大規模な集落跡としては、弥生後期の水田が多く出土している上田町遺跡があり、また古墳時代の遺跡としては5世紀初頭から大規模な集落がみられる大和川今池遺跡がある。ともに狭山池からははるか北側の遺跡であり、また旧天野川が形成した氾濫原や沖積丘陵上に展開する遺跡である。さらに流域の南側では河川の東西に中位段丘が広がっているが、この地域においては狭山池築造以前の集落遺跡としては6世紀末以降に集落が展開する太井遺跡・平尾遺跡がわずかにあげられるだけである。以上のことからも明らかなように、7世紀初頭の狭山池築造以前においては、北部の氾濫原や沖積平野においては集落や水田が営まれていたものの、南部の中位段丘においてはほとんど開発は進んでおらず、谷地形や氾濫原を利用して小規模な水田や集落が営まれていたという状況がうかがえる。狭山池の築造はこの地域の開発にとって非常に大きなできごとであった。

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4 築造時の狭山池

狭山池の築造時の遺構として検出されているのは東樋下層遺構および北堤断面の12層である。北堤のレベルから当時の水面は73.4m程度と推定される。図335に示された等高線を追い掛け、西除、東除付近のように後世に人為的に掘削が行われた部分についてはその影響を考慮して作成したのが図339である。この時期の樋のうち発掘調査で確認されているのは東樋下層遺構だけであるが、谷底平野の一番低い箇所である中樋付近にも、底水を取るために当然樋が存在したと思われる。問題は西樋が存在したかどうかであるが、考古学的には判断できない。ただこの時期の堤防の規模は、東西の段丘面よりも低いことを考慮すれば樋から出た水を現在の西除川方面に流すことは困難であり、西樋が存在したとしても堤の北側の谷底平野に落とすしかない。仮に中樋が存在したとすれば灌漑の面でこれは余り意味のない樋である。よってこの時期には東樋および中樋の二つだけが存在したと考えたい。

また築造時から除は当然存在したと思われるが、その場所についても不明である。工事の中で現在の東除の北側において御庭池方面にむかって伸びる溝状の掘りこみが検出されたが、この掘りこみの底部は約73mであり、先に推定した常時満水位にほぼ等しい。もちろんこの掘りこみの性格については後世の掘削や災害の痕跡である可能性があるが、ここではそのレベルを重視して築造当初の除と考えたい。この除の水は現在の御庭池を通って北堤より400m北側で谷底平野に流れこみ東樋からの水路と合流していたと思われる。西側の除についてはその存在を裏付ける根拠はないが、存在した可能性は高い。

築造直後の狭山池の規模、施設については以上のように推定しているが、その築造方法についても少し考えてみたい。溜池築造以前には先にも述べたように谷底平野を河川が北流していたが、溜池を造る際には、この河川をどう制御するかがまず問題となる。ここでは東岸部の調査で出土している大溝を工事のために河川をつけかえたバイパス水路の痕跡と考えたい。この水路は現在の狭山池の東岸に沿って北流し、東樋遺構付近に至っていたと思われる。東樋下層遺構はこのバイパス水路を利用して敷設された可能性があろう。このようにして河川を東側に付け替え、その間に中樋を設置し、その後に再び河川を戻して、今度は東樋を設置したのち堤防の築造に移ったものと思われる。堤防の築造方法は北堤断面の項で述べた通りであるが、堤防の長さは図339の通りであるとすれば約300mとなる。

次に狭山池築造の下流への影響を考えたい。狭山池はもちろん狭山池より下流側の農業用水の確保のために築造された溜池であるが、築造当初の灌漑範囲はどの範囲であったのであろうか。その際に狭山池が北側の沖積地の灌漑を目的としたものか、あるいはその東西に広がる段丘面までも灌漑範囲としていたのかがまず問題となろう。沖積平野については池尻遺跡(1)池尻遺跡(2)の項で述べたように狭山池築造以前から小規模な水田は谷底平野の各所に存在しており、狭山池ができてはじめてこの地域に水田が造られたと考える必要はない。むしろ沖積地の開発については狭山池の築造によって、点的な開発が面的に拡大し、またその安定性を増したものと評価されよう。池尻遺跡(1)のC調査区においては狭山池築造前には、不整形の小区画水田が存在していたが、7世紀には整然と北西方向を向いた畦をもつ水田が形成されている。また北堤の直下に位置する池尻遺跡(2)の水田は狭山池築造に伴って廃棄されている。狭山池の築造によって、北側の沖積地においては大規模な区画、水利の再編成が行われたことが想定できる。また狭山池の築造についてはこれまで段丘上の開発と関連して論じられることが多かったが、段丘面の高さにまで達していない堤防の規模を考えると、この段階の狭山池が東西の段丘面に水を送る可能性は少ないだろう。狭山池の築造はまず沖積平野の開発を第一義的な目標としてなされたものと考える。

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5 奈良時代の狭山池

奈良時代には文献で知られている改修として、天平3年(731)の行基の改修と天平宝字6年(762)の改修がある。これらの改修の痕跡は今回の北堤断面調査でも確認されている。また東樋下層遺構が上流側に延長されているのも天平宝字6年の工事に伴うものと考えられる。特に天平宝字6年の改修は大規模なもので狭山池の堤防はこの段階で初めて東西の段丘上面の標高に達している。それに伴って汀線は南側に拡大したものと思われる。この時期の樋は基本的には前代のものを改修して利用しているので、中樋および東樋が存在したと思われる。またこの時代には堤防が段丘面の高さまで達したために、段丘面を大規模に掘削して除を設けることが可能となった。もちろん除の場所を特定することはできないが、いくつかの候補地は考えられる。日下雅義氏は行基の改修のころまでに池の西側の段丘面を掘削して現在の西樋→副池の方向に西除が設けられた可能性を述べておられるが、除としては日下氏の想定ルート以外にも、現在の池尻新池付近の谷などが考えられる。また先に述べた東側の除については底面のレベルが約73mと低いためこの時期には放棄された可能性が強い。

また狭山池に関連する奈良時代の動向として重要なのが『続日本紀』に記された天平4年(732)の狭山下池の築造である。この狭山下池は狭山池よりも約1km北側に所在する太満池のこととしてほぼ間違いがない。太満池は狭山池と同様に南河内の開発にとって大きな意味をもつ溜池である。それは太満池が丹南郡の条里地割の南限となっていることからもうかがわれる。現在の狭山池の堤防は北東-南西方向を向いており、この方向は築造以来変化がないことが調査の結果明らかになっているが、これに対して太満池の堤防は正しく東西方向を向いている。このことは太満池が、この地域の条里制の施工と一体となって築造されたことを示している。図341狭山池周辺の谷底平野の底部および東側の段丘面の高さを示した模式図である。この図をみれば築造当初の狭山池の堤防は段丘面まで達せず、奈良時代になってようやく堤防がその高さに至ったことが読み取れる。また狭山池の水を段丘上に導くためには相当な距離の水路が必要であることもわかる。次に太満池に注目すると太満池の箇所において沖積地の底面レベルと段丘面のレベルの差が非常に小さくなっていることが明らかである。この立地から考えても太満池は東側の段丘面上に水をあげる目的で築造された溜池であることがうかがわれるが、現在の水利形態をみても太満池はこの機能を果たしている。太満池の三つある樋のうちもっとも東にある牢樋から出た水は段丘崖にそって流れ、美原町の平尾、菅生よりも北においては段丘上の水田に水を供給している。以上のことから考えて奈良時代の狭山池改修および下流の太満池の築造は南河内の段丘面上の開発を大きな目標としたものであったと思われる。この時期の下流遺跡の動向をみても、観音寺遺跡、真福寺遺跡、太井遺跡、日置庄遺跡、丹上遺跡など狭山池の灌漑範囲であったと思われる中位段丘上の遺跡において、8世紀を契機として集落が営まれるようになってくる。狭山池が築造された7世紀初頭にまでさかのぼる集落遺跡は、清堂遺跡や新金岡更池遺跡などその数も少なくまた狭山池からも北側にずいぶん離れた遺跡であることを考えれば、8世紀が旧天野川流域の開発にとって一つの画期をなすことは明らかであろう。奈良時代の狭山池改修と太満池の築造によってこの地域の段丘上の開発はようやく本格化したのである。

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6 鎌倉時代の狭山池

鎌倉時代の狭山池の状況についてはきわめて情報が少ない。中樋遺構から出土した石樋や重源狭山池改修碑によって重源の手で中樋が改修されたことが確実であるが、考古学的な遺構からはそれ以外のことは読み取れない。

重源狭山池改修碑文の中で当時の灌漑範囲に多少とも関連するのは「摂津河内和泉之人民之誘引」によって重源が改修に乗り出したという部分である。狭山池が荒廃したので、これらの地域の人々が重源に工事を依頼したという内容からは、少なくとも当時の灌漑範囲が摂河泉の三ヶ国にまたがっていたことが推定できる。狭山池が所在する河内が狭山池の灌漑範囲であるのは当然であるが、摂津や和泉がその灌漑範囲となるためにはいくつかの前提が必要である。摂津については狭山池の灌漑範囲がもっとも広かったと思われる慶長17年(1612)に平野郷・喜連村・鷹合村・湯谷嶋村・我孫子村・庭井村など摂津の村落に狭山池の水が供給されている(図338参照)。これらの村のうち平野村の一部と喜連村以外は、西樋→西除川のルートをたどって、西除川に設置された各村の井堰から取水している。また同様に和泉については慶長17年の段階では大豆塚村が狭山池の灌漑範囲に含まれているが、この村も西樋→西除川のルートで水を引き入れている。したがって摂津や和泉の村落に水を送るためには西除川に水を落とす樋の存在が前提となる。慶長改修以降はこの機能を西樋が担うこととなるが、鎌倉時代の段階でこの西樋に替わる樋が存在したとみるのか、あるいは樋は中樋が唯一の樋で太満池において東西への分水がなされていたのかは現在のところ判断できない。ただ重源の工事がほぼ中樋周辺に限られていたと思われることからここでは一応後者の立場を取っておきたい。しかしながら鋤柄氏の研究においては、鎌倉時代以後西除川左岸の遺跡が飛躍的に増加したことが明らかにされている。このような下流遺跡の動向が重源の改修のみによるものとは思えないが、この時期を画期として西除川が狭山池の主要水路としての機能を担うようになり、左岸の開発が大きく進展したことは指摘できよう。重源の改修よりも約1世紀後には西除川に沿って、池尻城や野田城・大饗城が出現する。これはもちろん南北朝期の政治状況に対応したものであるが、これらがいずれも西除川に沿った水利の重要地点に立地していることは、狭山池とその水利の掌握が当時の地域権力にとっても重要な課題であったことを示している。

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7 慶長改修時以降の狭山池

慶長の改修時の汀線は近世の絵図などからある程度復元が可能であるが、いくつか解決すべき問題点がある。図342に実線で示したのは、「狭山池法下耕地整理地区及ビ之ニ隣接スル土地現形并予定図」(狭山池土地改良区蔵)などから復元した昭和の改修以前の汀線である。現在と比較すると、東除の南側に2ヶ所入江状の地形があり、また西側にも2ヶ所同様の入江状の地形がみられる。いずれも東西の段丘に刻まれた開析谷の影響を受けたものである。また南岸には現在南堤があり直線的なものとなっているが、かつては小規模なデルタ地形を示していた。北堤および東岸については近世を通じて、この昭和改修以前の汀線のままであったと思われるが、南岸の河川の流入状況および西除の場所については近世の中でも時代によって変化がみられる。南岸によって変化がみられる。南岸については慶長改修当時の状況を復元した図343に示した通り大きく南に広がっていた。この部分は河川の流入口に近いために土砂の流入が激しく、ことに上流で新田開発がさかんに行われるようになった元禄時代以降は堆積物が池を埋め、ほとんど水が溜まらなくなった。そのためこの部分は埋め立てられて田畑となり、池内新開ができて以降は天野川も現在の流路よりも少し東側を流れていたことがいくつかの絵図に描かれている。天野川の付け替えの時期は史料的に明らかではないが、明治6年(1873)に作成された「河内国丹南郡狭山池図面」(田中家文書)などではすでに現在の位置に付け替えられているので近世後期の改修で流路が変更されたことがわかる。西除の位置についてはさらに複雑である。図152に示した「狭山池西除ケ略絵図」(田中家文書)には黒い太線で堤が印されているが、これの堤が直線部からはみでた場所はかつて西除が存在した場所に残された腕堤であると思われる。この絵図をみる限りでも4回程度西除が改修され、その位置も少しづつ南側に移動していることが読み取れる。昭和の改修においては西除の場所自体は移動しておらず、現在の場所に西除が設置されたのは安政の改修の時と考えられる。図343には近世の絵図や古文書から推定される各時代の西除の場所を示しておいた。天明期以降には西樋の西南に小池という小さな池が存在するが、天和3年(1683)「狭山池巡見絵図」(田中家文書)にはちょうどこの小池のあたりに西除が描かれている。近世には西除がたびたび決壊したことが多くの近世史料に記されているが、おそらく慶長の改修の時には小池の場所に除が築かれ、決壊と改修の連続によって除の場所が南に移動したため、元の除の場所に小池が造られたものと思われる。

慶長改修では中樋西樋東樋の三つの樋と東西二つの樋が造られている。ダム工事前のボーリング調査や、工事中の観察によれば、図339の斜線の部分は大阪層群が池底にほとんど露出していた。この場所にも元来は段丘層がのっていたはずであるので、西樋の位置を考えると慶長の工事の時にこの部分の掘削がなされた可能性が大きい。ただし先にも述べたように中世段階での狭山池の様相は重源中樋の改修以外はほとんど不明であるため、この部分が慶長以前に掘削されていた可能性も否定はできない。また東除については狭山池から池尻新池北側までの間の東除川は慶長改修の時にはじめて掘削されたことが正保期に作成された「河内国絵図」(内閣文庫蔵)などの史料によって明らかである。東除が現在の位置に設置されたのも慶長改修時であろう。現在の東除は段丘崖よりもさらに東に存在するので図339の斜線の部分が慶長改修に際して掘削されたと思われる。また三つの樋については今回の調査ですべてその遺構を発掘することができた。中樋西樋については割賦帳などの史料によってその灌漑範囲が明らかであるが、東樋については近世初期に既に廃絶していることもあって灌漑範囲は明瞭ではない。東樋は1段であり、規模の点で他の樋とは大きな差があり、狭山池と太満池の間の谷底平野の東半分を潤したものと考えられる。慶長の改修が下流に与えた大きな影響については既にいくつかの研究がある。朝尾直弘氏の研究によって更池村(現松原市)では新たに溜池が造られ、また耕地の間の水路が整備されより生産性が高まったことが明らかにされている註6)。三宅村(現松原市)の大海池や深淵池のような大型の溜池が慶長期に築造されているように註7)狭山池の改修は下流の水路網、溜池網の再整備を随伴現象としてひきおこし、結果として近世初期のこの地域の生産性は飛躍的に高まったといえる。これら下流の水利に関する研究については本報告についで刊行される『狭山池』論考編にいくつかが掲載される予定である。

近世に狭山池では度重なる改修が行われており、それを示す多くの史料も残されている。狭山池調査事務所ではこれらの狭山池関係の古文書、絵図の調査にも取り組みすでに『狭山池』史料編を刊行している。同書巻末の年表には知りうる限りの狭山池の改修を掲載しているが、同書の刊行後、さらに新史料の発見が相次いでいる。近世の度重なる改修の原因となったのはやはり災害であった。慶長元年(1595)の大地震が狭山池の慶長改修の一つの原因となったことは、地質学者の共同研究によって明らかにされているが、このほかにも宝永4年(1707)の地震でも狭山池が被害を受けたことが「中林池日記」(中林家文書)などに記されている。また東樋が放棄されたのも元和6年(1620)の台風が直接の契機であったと思われる。近世を通じて北堤が災害の被害を受けた例は比較的少ないが、西除についてはたびたび洪水によって崩壊している。このような災害と改修の繰り返しは明治以後も継続してみられる。明治39年(1906)に完成した工事で初めてコンクリートが使用され、また昭和初期の大改修が実施されることによって、ようやく災害と改修の繰り返しから脱却することができたのである。

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写真111 狭山池巡見絵図
(天和3年・1683・田中家文書)
写真112 御巡見御改狭山池絵図
(天明8年・1778・田中家文書)
狭山池巡見絵図御巡見御改狭山池絵図

写真113 河内国丹南郡狭山池図面
(明治6年・1873・田中家文書)
河内国丹南郡狭山池図面

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8 小結

狭山池から出土した遺物、遺構のもつ情報量は果てしなく大きい。行基重源、片桐且元、小堀遠州ら各時代の著名人物が改修にかかわっていることもあり、狭山池を縦軸にわが国の農業土木史を構成することも不可能ではないだろう。また狭山池調査事務所では豊富に残された文献史料の分析や、下流で行っていた水利慣行調査を実施しており、多くの研究者の手によって堤体や池内堆積物の自然科学的な分析も進められている。発掘調査の成果に加えて、これら多くの分野の成果を参照できたことが、狭山池研究に厚みを加えたのではないかと自負する一方で、あまりに情報が多いためにそれらを十分消化しきれなかったのではないかと畏れている。狭山池からは多くの遺物、遺構が出土しているが、狭山池自体は埋蔵文化財ではない。7世紀から現在に至るまで、時に災害のために荒廃することはあっても、そのたび多くの人々の手によって改修がなされ使い続けられてきた生きた文化財である。そしてその使命は今回のダム工事の後も変わることはないだろう。災害と改修の歴史に象徴されるように溜池は自然と文化の接点に位置する存在である。溜池の歴史の探究は、自然と人間の関係性についての考察に連続していく。工事を終えて、装いを新たにした狭山池が、自然と人間、環境と開発の関係を見つめなおす場となれば幸いである。

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註)
1)三田村宗樹「既存ボーリング資料のデータベース化と狭山池堆積物の分布」(『狭山池調査事務所平成元年度調査報告書』狭山池調査事務所 1990)
2)日下雅義『歴史時代の地形環境』古今書院 1980
3)金盛弥古澤裕木村昌弘西園恵次「狭山池ダム・古代の堤体が語る土木技術史について」(『土木研究』15 1995)
4)日下雅義『歴史時代の地形環境』古今書院 1980
5)鋤柄俊夫「中世丹南における職能民の集落遺跡」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集 1983
6)朝尾直弘『近世封建社会の基礎構造』御茶の水書房 1967
7)『松原市史』第1巻 1985
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※当文書は狭山池調査事務所が編集・刊行した発掘調査報告書『狭山池 埋蔵文化財編』(1998年3月31日発行)をHTMLファイル化したものである。
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南河内考古学研究所