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『狭山池』論考編(狭山池調査事務所1999年3月発行)所収

陶邑窯跡群東端の窯跡分布

植田隆司

1.はじめに

陶邑窯跡群の東端をなす陶器山地区・狭山地区における須恵器窯跡の分布調査は過去3回実施された。1962年〜1963年に大阪府教育委員会が横山浩一氏・田辺昭三氏を担当者としておこなった分布調査註1)では、堺市域から大阪狭山市域(当時、南河内郡狭山町)にかけての陶器山地区において82基の窯跡が確認されており、そのうち42基が大阪狭山市域の窯跡である。森浩一氏が1967年までにおこなった分布調査では、48基の窯跡が大阪狭山市域で確認されており、その成果は『狭山町史 第1巻・本文編』註2)に収められている。また、大阪府立狭山高等学校地歴部が顧問豊田兼典氏の指導のもと、1980年〜1983年におこなった分布調査は、既知の窯跡を再確認するとともに8基の窯跡を新規確認する成果を残した。

これらの分布調査の成果をふまえて、1986年に狭山町教育委員会が発行した『狭山町埋蔵文化財分布図』、これを1993年に改訂した『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』では80基の窯跡が図上にドットされており、現在に至るまでこれを基本データとして活用してきた。しかしながら、分布調査実施後における大阪狭山市域の都市化の勢いは激しく、開発等による影響で実際に現存する窯跡数も変動しているものと思われる。また、分布調査後におこなわれた発掘調査による窯跡資料も基礎データに加えていく必要がある。このため、大阪狭山市教育委員会では現段階における窯跡分布状況の確認を目的として、1990年〜1991年に市域全域を対象とした現地踏査を実施した。本稿はこの分布調査の成果を報告するとともに、先に実施された分布調査および現在までに追加された発掘調査成果を加えた基礎資料をとりまとめることに主目的を置いている。また、この分布調査資料から把握されるデータをもとに若干の考察をおこないたい。

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2.窯跡分布の概要

1990年〜1991年の分布調査では踏査が可能な期間が夏季に限定されたため、池の水位が高い箇所や草木の繁茂が著しい場所に所在が想定されている窯跡に対しては充分な踏査をおこなうことができなかった。そうした窯跡については機会を捉えて再踏査を実施する必要がある。

今回の分布調査成果に過去3回の分布調査資料を加えてまとめたものが本稿末尾の「大阪狭山市域の須恵器窯跡一覧」である。この一覧表では、名称が定着している窯跡のみに窯跡名を記した。また、『狭山町史 第1巻・本文編』(以下、『町史』と記述)で窯跡名が記載されているものについては、その名称を括弧書きで記した。なお、表中における窯跡ごとの番号は、『町史』の窯番号に準拠し、『町史』の記載から洩れている窯跡やそれ以後に新規確認された窯跡については、『町史』の窯番号に続けて通し番号を便宜的に与えた。

なお、当該地域の窯跡を立地の上から大まかに分類するに際しては、大阪狭山市域およびその周辺の原地形を第1図のように把握し、A〜Dの主要な谷筋ごとにその立地を分類した。第1図では黒色にベタ塗りした範囲が丘陵を、濃いトーンの範囲が高位段丘を、薄いトーンの範囲が中位段丘を示し、白塗りの部位が低位段丘・沖積平野を含めた谷筋を示している。本稿では以後、A〜Dの主要な谷筋を便宜上「主谷」と呼称する。A主谷は旧天野川(現、西除川)が北流する谷筋で、この水流を堰き止めて狭山池・太満池が築かれている。B主谷は市域南東部・東部の丘陵開析谷からの水流が合流して北流する谷筋で、寺ヶ池・摺鉢池・ひつ池・池尻新池・大鳥池・へど池等の池が築かれており、A主谷の狭山池の除け水を人為的に合流させて、東除川が北流している。C主谷は市域北東部の高位段丘開析谷からの水流が集まる谷筋で、副池・小野が池等が築かれ、北方でA主谷に合流している。D主谷は市域南西部の陶器山丘陵開析谷からの水流が集まる谷筋で、三津屋川が北流してA主谷の現狭山池南西端付近に合流する。

陶器山地区東部・狭山地区の須恵器窯跡は、丘陵斜面に分布するほか、比高差の低い段丘崖を利用して構築されているためにA〜Dの谷筋に沿うように分布している。本稿では記述の都合上、陶器山丘陵とそれに連なる高位段丘の窯跡、C主谷中位段丘の窯跡、D主谷中位段丘の窯跡、A主谷中位段丘の窯跡、B主谷中位段丘の窯跡に分けてその概要を記述する。また、従来の陶邑窯跡群の地区ごとに分類された窯番号は、陶器山地区をA主谷左岸以西としているためにA主谷左岸以西ではMT番号が与えられているが、A主谷右岸以東では窯番号が与えられていない。当該地域よりも東側の地域では須恵器窯跡の集中的・継続的な造営がみられず、散在的・散発的なものに終わっていることから、窯跡の集中的な造営がみられる大阪狭山市全域は陶邑窯跡群中に当然含まれるべきと考える。よって最終的には、A主谷左岸以西の陶器山地区の窯跡すべてにMT番号を与え、A主谷右岸以東の地域を「狭山地区」として認識して単独の通し番号を与えるべきであるが、混乱を避けるために、この作業は隣接市域をまたがる陶器山地区の窯番号がある程度まで整理された段階でおこなうほうが望ましいと考える。

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第1図 陶器山地区・狭山地区の谷筋
(豊田兼典氏作成の地形分類図・1942年航空写真を元に作成)
第1図


第2図 大阪狭山市内の須恵器窯の分布 [GIF File:121KB] [PDF File:1.36MB]
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3.高位段丘・陶器山丘陵の窯跡

対象地域の中で、高位段丘斜面・丘陵斜面に立地する窯跡は50基が確認されている。そのすべては市域西側の陶器山地区に含まれ、市域東側の丘陵や高位段丘においては現在までに1基の須恵器窯跡も確認されていない。
5世紀のある段階からこの丘陵・高位段丘で須恵器窯が造営されたようであるが、発掘調査例が少ないこともあり、どの須恵器型式期から当該地域を窯場としたかは明かではない。

窯番号92の仮称 西山2号窯は帝塚山学院大学敷地内の高位段丘斜面に遺存が想定されている窯跡で、斜面下の宅地から若干の須恵器が採集されている。第3図に掲げた杯蓋1点・高杯1点・ハソウ 2点の須恵器は西山2号窯の操業時期を示す資料であり、これらは概ねTK47型式の範疇で捉えられる。

窯番号31の山本1号窯(陶器山252号窯)は1987年に焼成部の一部が検出され、蓋杯・高杯などの須恵器が出土した註3)。これらはMT15型式・TK10型式の範疇に収まり、数点の資料はTK85型式と把握可能なものである。窯番号54の陶器山15号窯は北池北岸に位置する窯跡で、1962年に大阪府教育委員会が実施した試掘調査註4)では灰原の一部と思われる包含層が検出されている。この調査時に出土した須恵器は陶邑田辺編年註5)におけるMT15型式の標式資料となっている。また、北池が位置する開析谷には、この窯跡に近接して7基の窯跡の遺存が想定されており、これらの窯跡もMT15型式期〜TK10型式期に操業していたと考えられる。

この他に操業時期が推定可能な遺物が出土している窯跡としては、旧桃山学院大学野球場の東側に位置する陶器山42号窯(TK10型式〜TK43型式)、小野ヶ池南端にある窯番号8の窯跡(TK43型式〜TK209型式)、二本木池付近にある窯番号10の陶器山46号窯(TK43型式〜TK209型式)、窯番号51の陶器山69号窯(TK43型式?)等がある。

西山2号窯の南方に位置する窯番号17の仮称 西山1号窯は1958年に発掘調査が実施され、長さ11.2mの窯体が検出された。この時に出土した遺物は『町史』で報告されている。その後、狭山高校の分布調査、1990年に茱萸木新池の岸で実施した試掘調査などで第4図の須恵器が出土しており、杯蓋・杯身・高杯・提瓶・長頸壺などの器種が確認できる。このうち、杯身の形態と法量をみると、12・15・16の杯身は口径平均値12.0cm・器高4.5cm程度で、たちあがり高は1.3cm〜1.4cmを測り、TK10型式の形態・法量を示している。6・8・9・10・11・13・14・17・18の口径平均値は12.3cmを計測し、たちあがり高は1.0cm前後であり、TK43型式の形態・法量の範囲内におさまる。7の杯身は口径9.0cmを測り、たちあがり高は0.5cmであり、TK217型式と考えられる。これらにみられる型式差は、採集資料であるとはいえ、単独の窯体から産出されたものとは考えにくく、少なくともTK10型式期〜TK43型式期に操業した窯と、TK217型式期に操業した窯の2基の窯跡の存在が考えられる。

このように、陶器山丘陵・高位段丘の斜面に造営された窯跡からはTK10型式以前の須恵器が出土しており、TK47型式期〜TK217型式期までの長期間、窯場として利用されていたと判断できる。

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第3図 窯番号92 西山2号窯の須恵器
第3図
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第4図 窯番号17 西山1号窯の須恵器
第4図
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4.C主谷中位段丘崖の窯跡

市域北東部の高位段丘開析谷からの水流が集まるC主谷の中位段丘崖にも、わずかに窯番号78の窯跡などが存在することが知られているが、詳細は不明である。

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5.D主谷中位段丘崖の窯跡

市域南西部の陶器山丘陵の開析谷からの水流が集まるD主谷の中位段丘崖には9基の窯跡が確認されている。そのうち出土遺物から操業時期が判明しているものは、窯番号81の今熊1号窯(TK43型式〜TK209型式)註6)、窯番号82の陶器山51号窯、窯番号16の窯跡(TK209型式)、窯番号83の陶器山48号窯(TK43型式〜TK209型式)、窯番号84の陶器山52号窯、窯番号85の陶器山53号窯がある。

陶器山51号窯は西小学校の南方に位置する窯跡で、D主谷左岸に立地する。狭山高校地歴部の分布調査の際に第5図の須恵器が採集されている。杯身の口径は10.0cm程度のものと14.0cmのものとがある。たちあがり高は0.8cmを測るものと1.1cmを測るものとがある。これらはTK209型式の幅におさまる資料である。

陶器山52号窯はD主谷右岸に立地する窯跡で、狭山高校の分布調査および今次分布調査で第6図の須恵器が採集されている。1の杯身は口径10.6cm・たちあがり高1.8cmを測り、TK47型式におさまる形態である。2・3・4・5の杯蓋は口径平均値13.1cmを測り、法量・形態からみて概ねTK209型式として捉えられるものであろう。6の杯蓋は口径11.1cmを、7の杯身は口径9.0cmを測り、TK217型式まで下るものと考えられる。1の杯身と他の須恵器が同一の窯体で焼成されたとは考えられず、陶器山52号窯の操業時期としてはTK209型式〜TK217型式を考えておきたい。おそらく、1の杯身は近在の未知の他の窯跡から混入したものであろう。

陶器山53号窯は陶器山52号窯の南西に隣接して位置する窯跡で、狭山高校の分布調査で第7図の須恵器が採集されている。杯身7点の口径平均値は11.1cmで、たちあがり高は0.7cm〜0.9cmである。これらはTK209型式の法量・形態幅におさまるものである。

D主谷の中位段丘崖に造営された窯の操業は、陶器山52号窯採集のTK47型式に含まれる杯身を除けば、TK43型式期〜TK217型式期におこなわれていると把握される。陶器山丘陵およびそれに連なる高位段丘に隣接する地帯であるため、5世紀代に遡る窯跡が今後確認される可能性もあろうが、陶器山地区の窯場が東方へ拡大した結果、主としてTK43型式期以後の窯がこの地帯に展開していると理解されよう。

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第5図 窯番号82 陶器山51号窯の須恵器
第5図
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第6図 窯番号84 陶器山52号窯の須恵器
第6図
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第7図 窯番号85 陶器山53号窯の須恵器
第7図
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6.A主谷中位段丘崖の窯跡

市域を南北に貫くA主谷の中位段丘崖には18基の窯跡の遺存が確認および想定されている。そのうち出土遺物から操業時期が判明しているものは、A主谷左岸では、窯番号48の窯跡(TK10型式〜TK209型式)註7)、窯番号87の窯跡(TK43型式〜TK209型式)、窯番号90の窯跡(TK43型式〜TK209型式)がある。A主谷右岸では、窯番号1の太満池北窯(TK209型式)註8)、2の太満池南窯(TK43型式〜TK209型式)註9)、窯番号46の窯跡(TK209型式)、27の東池尻1号窯(TK217型式第1類)註10)、6の狭山池2号窯(TK209型式)註11)、89の狭山池3号窯(TK43型式〜TK209型式)註12)、23の狭山池4号窯(TK217型式第1類〜第2類)註13)、窯番号22の窯跡(TK43型式〜TK209型式)がある。また、A主谷を人工的に堰き止めている狭山池北堤の斜面に窯番号88の狭山池1号窯(TK217型式第1類)註14)がある。

A主谷の中位段丘崖に造営された窯の操業は、TK10型式期以後におこなわれており、TK43型式期〜TK217型式期を中心としていると理解される。

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7.B主谷中位段丘崖の窯跡

市域南東部・東部の丘陵開析谷からの水流が合流して北流するB主谷の中位段丘崖には11基の窯跡の遺存が確認および想定されている。そのうち出土遺物から操業時期がわかる窯跡は、B主谷左岸では、窯番号47の窯跡(TK43型式〜TK209型式)、95の池尻新池南窯(TK43型式)註15)、20のひつ池西窯(TK217型式第2類)註16)である。B主谷右岸では、窯番号3の仮称 大鳥池東窯(TK209型式)、96のひつ池東窯がある。

ひつ池東窯はひつ池東岸の中央付近で池中へ突堤状を呈した岸に遺存する窯跡で、狭山高校地歴部の分布調査および、1991年に実施したひつ池西窯の発掘調査時におこなった踏査において若干の須恵器を採集している。ただし、この箇所で採集した須恵器には明らかにひつ池西窯の須恵器が混入していたため、これを除外した資料のみを第8図に掲載した。2の杯身は口径13.2cm・たちあがり高0.9cmを、3の杯身は口径11.3cm・たちあがり高0.9cmを、4の杯身は口径11.0cm・たちあがり高0.7cmを測る。これらの形態・法量はTK209型式に含まれるものである。

B主谷の中位段丘に造営された窯の操業時期は、TK43型式期〜TK217型式期に限定されており、TK10型式以前に遡るような窯跡資料は確認されていない。

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第8図 窯番号96 ひつ池東窯の須恵器
第8図
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8.陶器山地区東部・狭山地区における窯場の変遷

以上の分布調査等によって収集された窯跡資料によって、陶邑陶器山地区東部・狭山地区における窯体構築場所は次のように拡大していったことがわかる。まず、5世紀後葉までは、陶器山丘陵主尾根以西のみに窯場が限定されている可能性が高い。5世紀末葉〜6世紀前葉になると、陶器山丘陵主尾根を越えて東側に窯場が拡大し、陶器山丘陵およびその北側の高位段丘においてさかんに窯が構築されるようになる。この時期、D主谷の三津屋川両岸の中位段丘崖においてもごく少数の窯が造営されている可能性もある。6世紀中葉になるとさらに窯体構築範囲は東へ拡大し、A主谷の旧天野川左岸の中位段丘崖でも少数の窯が造営されていた。6世紀後葉になると窯場はさらに東側へと拡大し、A主谷を北上する旧天野川を越えてB主谷の両岸の中位段丘崖でも窯体が構築されるようになる。また、陶器山地区東部・狭山地区全体でみても6世紀後葉〜7世紀初頭に操業した窯が圧倒的に多く、これは陶邑窯跡群全体の操業傾向とも一致する。

こうした当該地区における窯場の東方への拡大化傾向は、従来から指摘されてきたことであり、その要因として、窯焼きに用いる燃料の薪の獲得や、古墳時代後期における爆発的な古墳数の増加に伴う須恵器の需要の増大などが挙げられてきた。やはり、当該地区の窯場拡大化と窯跡数の増加は、陶邑全体の窯跡数増加と時期を同じくした現象であると理解され、古墳時代後期における需要増大に対応した生産調整の結果と判断してよいであろう。

また、陶邑全体の窯跡数は、7世紀前葉以後に激減をみるが、陶器山地区東部・狭山地区においても窯跡数が激減している。また、その窯体構築場所も、A主谷右岸の中位段丘崖・B主谷左岸の中位段丘崖・D主谷右岸の中位段丘崖に限定されてくるようである。

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9.おわりに

以上、1990年から1991年に実施した現地踏査の成果を公とするため、過去におこなわれた分布調査成果を取り込む形でとりまとめたが、踏査実施からすでに7年が経過してしまった。踏査実施後も大阪狭山市域の窯跡確認地点付近での開発に際しては細心の注意を払ってきたので、概ね変更箇所はないであろう。踏査の時点ですでに原地形をとどめないためにほとんど踏査の意味をなさない箇所も多くあったが、今熊1号窯の例もあるように、表面上は宅地化してしまった場所においても、窯跡が遺存している可能性は高い。現況で消滅が確認されていない窯跡については、開発等によって破壊されないよう今後も観察を続ける必要があろう。

最後にこの分布調査資料の公表に際して採集資料を大阪狭山市教育委員会に寄託くださった豊田兼典氏、1962年〜1963年に実施された大阪府教育委員会の分布調査成果についてご教示くださった小林義孝氏に御礼申し上げます。

註記
1)横山浩一田辺昭三『陶器山周辺地域窯跡調査概報』1963年back
2)狭山町史編纂委員会『狭山町史』第1巻、本文編、1967年back
3)市川秀之「山本1号窯(MT252号窯)発掘調査概要報告書」『大阪狭山市文化財報告書』1、1988年back
4)田辺昭三「陶邑古窯址群I」『平安学園考古学クラブ研究論集』第10号、1966年back
5)前出註4文献back
6)市川秀之植田隆司「大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書4」『大阪狭山市文化財報告書』12、1994年back
7)前出註2文献back
8)市川秀之植田隆司「太満池南窯・北窯発掘調査報告書」『大阪狭山市文化財報告書』5、1991年back
9)前出註8文献back
10)狭山池調査事務所『狭山池』埋蔵文化財篇、1998年back
11)前出註10文献back
12)前出註10文献back
13)前出註10文献back
14)前出註10文献back
15)市川秀之植田隆司「池尻新池南窯発掘調査報告書」『大阪狭山市文化財報告書』7、1992年back
16)植田隆司「ひつ池西窯」『大阪狭山市文化財報告書』10、1993年back

※当文書は『狭山池』論考編(狭山池調査事務所1999年3月発行)所収の研究論文である。
※当文書のテキスト・画像を他の出版物や Web Page へ無断転載することを禁止する。転載の際は必ず発行者・著作者の許可を得ること。
南河内考古学研究所
植田隆司
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