今熊1号窯 Page1


陶邑窯跡群 今熊1号窯


書名:大阪狭山市内遺跡群発掘調査概要報告書4
シリーズ書名:大阪狭山市文化財報告書12
発行年月日:1994年3月31日
発行者:大阪狭山市教育委員会
印刷所:橋本印刷株式会社
編著者:植田隆司・市川秀之
体裁:本文48頁・図版11頁、紙質/本文頁=ニュ−エイジ90g・図版頁=高白コ−ト紙70g・表紙=レザ ック
所収遺跡:狭山藩陣屋跡・東野廃寺・陶邑窯跡群今熊1号窯
※当文書は、陶邑窯跡群今熊1号窯(IK1号窯)発掘調査報告の抽出である。
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配布PAGE:南河内考古學研究所


例   言

1.本書は国庫および府費の補助を受け、大阪狭山市教育委員会が平成5年度国庫・府費補助事業として大阪狭山市内で実施した、個人住宅等建設に伴う埋蔵文化財の緊急発掘調査の成果をまとめた概要報告書である。
2.収録した各調査は以下の通りである。
  (1)狭山藩陣屋跡 :93−1区・93―2区・93―3区
  (2)東野廃寺   :93−1区
  (3)陶邑窯跡群  :今熊1号窯(93―1区)・93―2区
  なお、現地調査は、1の93―3区を大阪狭山市教育委員会社会教育課主事 市川秀之が担当、1の93―1区と93―2区・2・3を同植田隆司が担当した。
3.現地調査に当たっては、桜渕繁太郎・高林正男・廣瀧美智子・中野圭子をはじめとする諸氏の協力を得た。
 遺構・遺物の整理作業は、植山てる江・五福實幸・中尾美津江・扶川陽子が行なった。また、仲井光代・吉本和美・山崎和子・笹岡裕里子・塔本真知子をはじめとする諸氏の協力を得た。
 遺構写真の撮影は各担当者が行い、遺物写真の撮影については阿南辰秀氏の協力を得た。
4.本書の編集は植田が行い、市川がこれを補佐した。執筆は、狭山藩陣屋跡93―3区および93―2区出土遺物を市川が、その他を植田が行なった。


本  文  目  次

序 文  大阪狭山市教育委員会教育長 上谷三郎
例 言
はじめに : 1頁
1.狭山藩陣屋跡 93―1区 : 3
狭山藩陣屋跡 93―2区 : 5
狭山藩陣屋跡 93―3区 :13
2.東野廃寺 93―1区 : 14
3.陶邑窯跡群 今熊1号窯(93―1区) : 16
陶邑窯跡群 93―2区 : 46


挿  図  目  次

第1図 大阪狭山市周辺の地形と遺跡分布 :2
第2図 狭山藩陣屋跡調査区位置図 :4
第3図 狭山藩陣屋跡93―1区遺構平断面図 :4
第4図 狭山藩陣屋跡93―2区遺構平断面図 :6
第5図 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物(1) :7
第6図 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物(2) :8
第7図 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物(3) :9
第8図 狭山藩陣屋跡93―3区調査箇所と土層断面図 :13
第9図 東野廃寺調査箇所位置図所 :15
第10図 東野廃寺93―1区遺構平断面 :15
第11図 今熊1号窯調査区位置図 :16
第12図 今熊1号窯[IK1]焼成部平面図・土層断面図 :19
第13図 今熊1号窯第1次焼成床面出土遺物[IK1―1]:21
第14図 今熊1号窯第2次焼成床面出土遺物(1)[IK1―2] :22
第15図 今熊1号窯第2次焼成床面出土遺物(2)[IK1―2] :23
第16図 今熊1号窯第3次焼成床面出土遺物[IK1―3]:24
第17図 今熊1号窯焼成部撹乱坑内出土遺物 :25
第18図 今熊1号窯焼成部流入土内出土遺物 :26
第19図 杯身のたちあがり高とその角度 :28
第20図 杯身の法量 :28
第21図 陶邑窯跡群93―2区調査区位置図・調査箇所と土層断面図 :46

表  目  次

第1表 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物観察表 :10
第2表 今熊1号窯第1次焼成床面出土遺物観察表 :31
第3表 今熊1号窯第2次焼成床面出土遺物観察表 :33
第4表 今熊1号窯第3次焼成床面出土遺物観察表 :38
第5表 今熊1号窯焼成部撹乱坑内出土遺物観察表 :41
第6表 今熊1号窯焼成部流入土内出土遺物観察表 :44
第7表 報告書抄録

図  版  目  次

図版1 狭山藩陣屋跡93―2区(a.遺構、b.遺物出土状況)
図版2 狭山藩陣屋跡93―1区・東野廃寺93―1区
図版3 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物
図版4 狭山藩陣屋跡93―2区土坑出土遺物
図版5 今熊1号窯(1)(a.焼成部土層断面、b.第1次焼成床面)
図版6 今熊1号窯(2)(a.第2次焼成床面、b.第2次焼成床面遺物出土状況)
図版7 今熊1号窯(3)(a.第3次焼成床面、b.第3次焼成床面遺物出土状況)
図版8 今熊1号窯(4)(第3次焼成床面遺物出土状況)・陶邑窯跡群93―2区
図版9 今熊1号窯出土遺物(1)(第1次焼成床面・第2次焼成床面)
図版10 今熊1号窯出土遺物(2)(第2次焼成床面・第3次焼成床面)
図版11 今熊1号窯出土遺物(3)(第3次焼成床面・焼成部撹乱坑内)

はじめに

 大阪狭山市は、ベッドタウン化された昭和40年代以降に急激な人口増加をみた。近年においては、その頃の勢いは無いとはいえ、住宅開発は引続き盛んである。また、その頃に建設された木造住宅の建替えや増改築が行われる時期にさしかかっていることもあり、これらに伴う埋蔵文化財の発掘届の提出件数にもほとんど減少の兆しはみられない。この傾向は今後も持続するものと考えられる。
   本報告書においては、本年度に大阪狭山市教育委員会が実施した、市内における個人住宅建設等に伴う発掘調査の成果を報告する。ただし、狭山ニュ−タウンなど既に大規模な造成工事が行われた箇所における住宅の新築・増改築に際しては、本市教育委員会は立会調査を行い、これに対応している。立会調査を行なった結果、遺構・遺物が検出されなかった事例が多数あったが、これらについては報告を省略する。
ところで、大阪狭山市域の遺跡分布と地形分類は第1図の通りである。本市は読んで字のごとく、西側の泉北丘陵と東側の羽曳野丘陵に挟まれた地形で、この両丘陵の間に幾筋かの南北方向の谷筋が走っている。これらの谷筋から、旧石器時代・縄文時代の打製石器が幾度か採集されている(註1)。
 弥生時代の遺跡としては、市域南部の高地において、弥生時代後期の集落跡が検出された、茱萸木遺跡がわずかに知られるのみである。
 古墳時代中期に入ると、泉北丘陵を中心にその造営が展開された陶邑窯跡群が東方へとその域を拡大した結果、本市域西端に相当する陶器山丘陵とその北側の高位段丘の斜面に須恵器窯が数多く築かれた。古墳時代後期の6世紀中葉〜後葉になると、陶邑窯跡群は、さらに東方へとその域を拡大し、本市域の至るところの中位段丘崖に窯を築き、須恵器生産を行う。7世紀前葉〜中葉になると、窯焼きの燃料である薪や窯を築く斜面が不足したようであり、6世紀末〜7世紀前葉に築造されたばかりの狭山池の池の水を堰き止める堤の外側斜面のような、窯を造営するには不適当な箇所にまで窯を築くようになる2)。  この狭山池が築かれた主谷の東西に広がる中位段丘上に、東野廃寺・池尻城跡・狭山神社遺跡・狭山藩陣屋跡などの古代・中世・近世の諸遺跡が成立している。
 最近では、個人住宅建設を中心とする開発が、こうした中位段丘上・高位段丘上で盛んに行われている。このため、陶邑窯跡群の旧地形を保つ箇所や狭山藩陣屋跡での調査件数が近年増加の傾向にある。本報告書に記載した調査成果も、この2遺跡を中心としたものである。


註記
1)西野良政氏・上野正和氏・西岡勝彦氏の採集資料などがある。
上野正和「狭山の考古学研究と私」『さやま誌 大阪狭山市文化財紀要』創刊号、1992
2)狭山池調査事務所、1993年・1994年調査