今熊1号窯 Page2


3.陶邑窯跡群

陶邑窯跡群は、現在の行政区画の上では堺市・和泉市・岸和田市・大阪狭山市にわたる広範囲の地域に分布している。本市域内では狭山池西岸以西の地域、すなわち陶器山丘陵およびそれに連なる高位段丘・中位段丘に立地する窯跡を陶邑窯跡群中に含め、『大阪狭山市埋蔵文化財分布図』(註1)で埋蔵文化財包蔵地としている。しかし、実際には狭山池東岸以東の中位段丘崖にも多くの須恵器窯跡が存在しており、これらを陶邑窯跡群中に含めて考える方が妥当である。
本年度は2箇所で発掘調査を行い、1基の窯跡を新規に検出した。この発掘調査を行った位置は第11図・第21図の通りである。
                    

今熊1号窯(IK1号窯)発掘調査報告

(1)調査の契機と経過

平成5年9月6日、大阪狭山市今熊一丁目7番地1号の一部について、倉庫付個人住宅建設を目的として発掘届が提出された。当該地は陶邑窯跡群内に位置するものの、窯跡の存在が確認されていなかった。しかし、当該地は三津屋川左岸の中位段丘崖を埋め立てており、同じ中位段丘崖で約 200m上流に窯跡の存在が確認されているため、いまだ知られていない窯跡が遺存する可能性も考えられた。また、同発掘届によると、建築が予定される建物は鉄骨3階建てであり、基礎溝は現地表面から 1.1mの深さにまで達し、中位段丘崖もしくは中位段丘面を掘削するものと思われるため、同地点に窯跡が遺存している場合完全に破壊されるおそれがあった。
よって、同年9月16日付、大狭教社第 435号で発掘調査が必要である旨の意見を付して発掘届を大阪府教育委員会文化財保護課に進達した。これに対して、同年10月11日付、教委文第1―4567号で「埋蔵文化財の発掘について」の通知が大阪府教育委員会よりなされたので、大阪狭山市教育委員会は同年11月1日付、大狭教社第30号で「埋蔵文化財発掘調査の通知について」を提出、同年12月1日から発掘調査を実施する予定であった。
ところが、この建設工事の設計業者と施工業者の連絡不行届きに起因して、発掘調査前に施工業者は基礎溝の大半部分を掘削した上に鉄筋の基礎を構築してしまった。発掘調査開始予定日の前日になって、設計業者から本市教育委員会へこの旨の連絡があり、現地へ急行したところ、きわめて遺憾なことに、敷地東側部分の基礎溝によって窯体の用地内での南北端が完全に寸断されていたので、すぐに施工業者に設計業者を通じて工事の停止を求めた。
かろうじて破壊を免れた窯体部分の土が非常に不安定な状態にあり、基礎工事再開とともに崩壊することは確実と判断したため、この箇所について当初の予定通り、12月1日から12月15日まで発掘調査を実施し、遺構の記録保存に努めた。また、遺構・遺物の整理作業を平成5年12月16日から平成6年3月31日まで行なった。なお、この箇所にて検出した遺物について、平成6年2月9日付、大狭教社第47号で大阪府黒山警察署遺失物係に「遺物発見届」を提出、現在本市教育委員会にて保管しているので広くご活用いただきたい。





(2)遺構と層序

今熊1号窯は、ほぼ南東向きに傾斜する中位段丘崖に、主軸をS―10°―Eとして、傾斜面を斜行して開口していると思われる。
焼成部の一部にあたる窯体は、調査区北側で近世頃のものと考えられる撹乱をうけ、南側では宅地造成前に崖状となっていたらしく、これを土留めするための石積みに伴う撹乱をうけ、東側でも比較的新しい撹乱をうけており、また今回の工事でも一部破壊されたためにかなりひどい遺存状態であった。
この状態において計測しうる窯体の各計測値を記述すると、第2次焼成床面での焼成部の幅は 1.6m、第2次焼成床面からの右側壁の残存高はA−A’軸付近で約 0.8m、調査区内において確認しうる窯体の長さは右側壁で12.8mである。(第12図)
本窯の焼成部は中位段丘礫層を半地下式に掘削して構築されており、焼成床面は計3枚が確認される。第1次焼成床面は暗灰青色砂質土を焼固したもので、中軸付近での厚さが 5.0cmを測り、上面に厚さ 2.0cmを測る暗褐色砂質土の間層が被覆する。
第2次焼成床面は中軸付近での厚さが 8.0cmで、遺存する側壁は、この第2次焼成床面に連続した暗灰青色を呈するスサ混じりの貼壁である。よって、第1次焼成床面使用時における側壁は、第1次焼成の後に窯体の改造が行なわれたであろうために明らかでない。しかし、現存する側壁のすぐ外側が地山であることと、第1次焼成床面直下の地山面が側壁の下方に向けて緩やかに立ち上がっていることから、第1次焼成時の側壁は現存する側壁とほぼ同じ位置に存在したであろうと推察される。
第3次焼成床面は、第2次焼成床面との間に暗褐色砂質土・暗赤橙色砂質土の2枚の間層をはさんで貼床されており、中軸付近での厚さは 7.0cmである。
なお、各焼成床面の傾斜角は、第1次焼成床面が22°、第2次焼成床面が18°、第3次焼成床面が15°である。窯体改造以後、貼床を行なう度に床面傾斜角は緩やかなものになっていく状況が看取される。


遺物出土状況

第1次焼成床面上において、焼成時の原位置を保って検出された須恵器は杯蓋1点のみであり、他の須恵器は上層の暗褐色砂質土層中にて床面に密着せずに検出された。このことは、窯体改造に至るまでのある段階において、床面の清掃が徹底されたことを示しているといえよう。
第2次焼成床面上では、現存する床面での最も奥側で、窯体の主軸にほぼ直交して、杯蓋と杯身が直線的に並んで8点検出された。そのうち、左側壁に近い箇所では、杯蓋を内側を上に向け、その上に杯身を正置し、その上に杯蓋を内側を上に向けた重ね焼きの状態で検出した。また、この列とは別に、主軸から右側において、杯蓋3点がいずれも正置の状態で散在して検出された。これら以外の須恵器はいずれも2次移動を受けて、上層の暗褐色砂質土層中に含まれるものである。
第3次焼成床面上では、窯体の主軸付近において、杯身が集中して検出された(第12図)。主軸上の奥寄りで、杯身57が床面上に正置され、その上に杯身64が正置の状態で重ねられていた。これの左側に杯身62が正置され、その上に杯身59が正置の状態で重ねられていた。その手前側に杯身67が正置され、その右側に杯身63が正置され、その奥側で杯身72がやや傾いて、杯身64の体部外面に口縁部を一部接して正置の状態で検出された。この一群は上方より見る5枚の花弁のように配列されている。また、第3次焼成床面上の他の箇所では、右側壁寄りで杯身60と杯身65が、左側壁寄りで杯身73が、いずれもやや傾いた正置の状態で検出された。ここに記述した以外の須恵器は、床面に密着せず、床面との間に薄い砂層をはさんで出土したので、何らかの2次移動を受けたものと考えられる。